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ある少女の真意

 前方から「よし」という力強い声が聞こえる。

 前方から吹き抜ける磯風が、辺りの蒸し暑さを強くする。それでも先ほどまでの太陽の熱に蒸れた土という息苦しい空気よりは幾分ましだった。

 公也は周囲を見た。いつも通り、獣道さえもろくにない草木の中を進んだこと、そしてここが前回と同じ場所なのかどうか、怪しく思える。

 公也だけでなく、凪沙達の足下も先日の大雨のせいで泥まみれになっている。ジャージとはいえ、湿った感触が足下にまとわりつくのは気持ちのいいものではない。

 これでもかなり天候の回復を待った方だ。現に、この山へ来るまでの間の田畑は、乾きすぎて水を欲っするほどだった。

 先陣を切る凪沙の横顔を見る。日焼けした顔に、玉のような汗が浮かぶ。以前なら上下ともジャージ姿だったのに、今日の上半身はシャツ一枚だ。

「暑いね。でも季節を逃すわけにはいかない」

「……あのさ、夏に比べたら冬の方がましなんじゃないか?」

「甘い! 雪とか積もったりしたら行動なんて出来ないよ」

 凪沙は強く叫ぶ。だが疲労があるのか、すぐさま木にもたれかかって水筒の蓋を開けていた。

「それに関しては凪沙の言う通りね。寒暖の差が激しい土地だもの」

 公也の側にいた美月が呆れたような声を発し、木の根元に座る。美月は一番後ろにいた香琴を手招きし、自らの鞄からハンドタオルを差し出した。

「美月ちゃん、ありがとう」

「いいわよ。あんた蒸し暑さで倒れそうだったじゃない」

 美月が困ったように腕を組むと、香琴は誤魔化すように笑った。確かに公也の後ろで、香琴のついてくるペースが遅いと感じることはしばしばあった。だが公也はそれを把握しておらず、一歩先を行く美月はそのことに気づいていた。

 情けない。

 公也は木漏れ日を見つめながら、自戒の念を込め口を閉じた。

「いい潮風だ」

 木にもたれた凪沙が、遠目に海を見つめおもむろに呟く。公也の目が反射的に凪沙を捉えた。いつもの明るさとどこか離れた、静かでおとなしい、言ってしまえばよく知らない人がそこにいた。

「凪沙、そうは言ってもあんた今年で高校終わりでしょ」

「来年受験控えてるみつきちとハムくん、そして再来年のカコちゃんと違って私は自由の身だからね」

「あんた今でも家の仕事手伝ってるじゃない。自由ってことはないと思うけど」

「あんなの好きでやってるだけだし。それを続けてもなあ、働くって言うのとなんか違う気がするんだよね」

 凪沙が美月の言葉に振り向く。いつもの眩しい顔だ。

 凪沙は大きく伸びをして、シャベルを手にする。美月が凪沙の目を捉えるが、凪沙は気にせぬままそこらを掘り始めた。

「今日はここみたいね」

「こんないい加減な決め方で大丈夫なのかよ……」

「そういう直感って言うのも大事じゃない? 私も頑張らないと」

 美月も立ち上がり、同じようにシャベルを手にする。こういうので大丈夫なのだろうかと心配になりながらも、公也もまたシャベルを手に軽く地面を掘り出した。

 雨で湿ったためか、土はいつもより軟らかい。今日ここを仕掛けていくというのは、存外に間違いではないかもしれない。元より、見つからなくて当然のものだ。一つずつ可能性のある場所を潰していく作戦としては、いいかもしれない。

「……」

 三人で連携しながら掘り進めていく中、公也は黙り続けている香琴にふと目をやった。気のせいなのかもしれないが、今日は笑い方に憂いを帯びている気がする。

「ハムくん、手、止まってる」

「ごめん」

 よそ見していたことを、すぐに美月は見抜く。公也は慌ててシャベルを強く握るが、それでも脳裏に香琴の寂しげな笑い方の面影が消えることはない。

 あの日、海沿いで香琴は何を言いたかったのか。

 あの雨の日、凪沙は何故無表情になったのか。

 ただ落ち着いて話してくれる美月も、何も教えてくれることはない。

 深く突っ込んではいけない話なのか。だったら、ここで穴掘りに興じている自分は間抜けな道化ではないか。

 三人に対する疑念が、公也の心に一瞬過ぎった。公也はすぐさまシャベルを地面に突き刺し、その疑念を刺し殺した。

 三人には三人の事情がある。それは自分が知る必要のないことだ。どう頑張っても、三人にはなれない、ならそれでいい。三人も同じように、公也にはなれない。先日、美月が布団の上で呟いた言葉が、何度も脳裏を駆け巡る。

 暑いな。公也は空を見た。綺麗な白い雲が少し浮かぶだけの、眩しい青空。その日差しがこの薄暗い雨上がりの森をサウナに変えていく。

 汗が何度も瞼にかする。一度タオルで拭いた方がいいかと、公也は自分の荷物に手を伸ばした。だがそれより先に、香琴がそれを読んでいたかのように、タオルと水筒を渡してきた。

「あ、悪い」

「ううん、私、何も出来ないのにここに来て、悪いなあって思って」

「……こういう風に手伝ってくれてるから、誰も文句言わないと思うけどな」

 歯切れ悪く公也が呟く。香琴は少し笑ったあと、前方で作業を続ける凪沙の背を見つめた。

「ねえ、作業しながらでもいいから、ちょっとお話、いいかな」

「……俺に?」

「そうだね、ハムくんに言うのが最初かな。でも、ナギちゃんにも聞こえると思うし、いいかなって」

 香琴の声が、土を掘り進めるシャベルの音に混じる。それでも凪沙と美月から返事はない。

 この空気のままで大丈夫なのかと心配になりつつ、公也は彼女の前で言葉を待った。

「ハムくん、来年受験で、街に行くんだよね」

「まあ一応その予定。慣れてないとこに行くの嫌だし、前住んでたとこに戻ろうかなって思ってる。アパート借りて一人暮らしだけど……」

「そうなんだ。ねえハムくん、私も同じ街に行きたいって言ったら、びっくりする?」

 えっ、という単純な言葉さえ浮かばなかった。公也は香琴の目を見ていた。優しく笑みながら、公也の目を捉え続ける。ただ、それだけのことをずっと続ける。

「まあ……受験が終わってからだから、当分先だろ」

「じゃあ、ハムくんと一緒の生活してもいいんだ」

「……香琴、お前何言ってんだ? 大丈夫か?」

「私は大丈夫だよ。美月ちゃん、いいよね?」

 香琴が静かに美月に訊ねる。公也は美月に振り返ることが出来なかった。

「なんで私の許可取るの。香琴がそうしたいならそうしなさいよ」

「でも、美月ちゃん、ハムくんと一緒の街行きたいのかなって、そう思ってたから」

 美月は香琴に明確な答えをよこさなかった。この湿った温室のような蒸し暑さが、肌にまとわりついては、気持ち悪さを増加させていく。

「ナギちゃん、いいよね?」

「私もみつきちと同じだよ。別に、カコちゃんが幸せならそれでいいよ」

「……ありがとう。ナギちゃんがね、私のために色々してくれてるの、分かってる。この探検だってそう。でも……私、戻る」

「……」

「おじさんとおばさんにも、凄くよくしてもらってるよ。みんなのことだって大好き。でもやっぱり、離れなきゃなあって思うの。もう、あんまり迷惑かけたくないから」

 香琴の口からそれが漏れた時、公也は香琴から凪沙へ視線を咄嗟に移した。

 凪沙は顔を見せない。ただ、シャベルを持つ手が震えている。あの電話に出た時よりも苦痛に満ちあふれた背中だ。

 凪沙は何を言うのだろうか。口を挟めない公也が黙って凪沙の動向を窺っていると、彼女はすっと振り返って、笑顔を振りまいた。

「ははは、カコちゃん、思い詰めるのよくないって、いっつも言ってるだろー。私は、カコちゃんのお姉さん。みつきちもカコちゃんのお姉さんで、ハムくんはお兄さん」

「……凪沙」

「カコちゃんが勝手に話決めちゃってたらまずいから、みつきち、私先に山下りるね。いや隊長として駄目だってのは分かるんだけどさ、ごめん、なんて言うかさ……」

 最後まで凪沙は笑顔を崩そうとしなかった。香琴はそんな凪沙を見ても、やや緩く微笑み続けるだけだった。その微笑みという行為に、縛られたかのように。

 凪沙は宣言通り、鞄を背負い手を振ると、一人先に山を下りていった。凪沙はいなくとも、美月がいる。山の中で迷うということはまずないだろう。

 それよりも、この空間の張り詰めた空気が公也には重苦しくてたまらなかった。美月は困ったようにため息をこぼし、前髪をかきあげる。言い出した香琴は何も言わない。

 そして香琴が凪沙に言った「おじさんとおばさん」という言葉も気になった。

 公也のむずがゆい表情に気づいたのか、美月が木の根元に座り、静かに呟いた。

「別に言わないつもりとかそういうのじゃなかったのよ。でも、香琴が凪沙の家で生活してるのは本当よ」

 美月はうなだれるように、それ以上の言葉をなかなか発さない。すると、香琴が公也に「ごめんなさい」と呟いた。

「香琴、その言葉やめてって美月に何度も言われてるでしょ」

「……癖、なのかな。そういうのが自分を駄目にするって分かってるのに」

 二人の間にも、ぎくしゃくした空気が走る。

 聞かない方がいいこともある。そんなことは街で生活していてよく知っていることだ。だがここで香琴の何かを知らなければ、後悔する。公也は悩んだ挙げ句、香琴に直接訊ねていた。

「香琴はここで生まれ育ったんじゃないの?」

「……」

「ハムくん、香琴は元々、街に住んでた子よ。あなたと違って、お母さんじゃなくてお父さんを小さい頃に亡くしたの」

 公也の疑問に美月が答える。美月は横目で香琴を見た。香琴は諦観したように微笑み、何も言葉を発さない。

 美月は俯きながら、再び公也に答えを返した。

「この子のお母さんがね、育児放棄っていうのかしら、小さい香琴にずっと酷いこと言ってたの。いなくなればいいとか、嫌いだとか」

「え……」

「ハムくん、香琴がいっつも笑ってておかしいと思ったことない? 香琴は……笑うことで自我を保ってるの。誰からも攻撃されないために。……香琴は笑うことしか出来ないの」

 公也ははっと香琴を見た。これだけ目の前で事実がさらけ出されているのに、香琴は笑顔を浮かべ続けている。

 出会ってからずっと引っかかっていた違和感の正体、それがここにあった。そして、先ほど一人去ってしまった凪沙の笑顔も、同時に公也の胸元を圧迫していく。

「香琴は中学の頃まで街にいたの。でも見た目がよくても、何があっても笑い続けてるって変わり者じゃない。いじめられはしなかったらしいけど、香琴が周りと距離をずっと取ってたから、友達なんていなかったの、この子」

「……だから……昔の話が」

「凪沙の家は香琴のとこの親戚。凪沙のお父さんが見るに見かねて、ちょっと強引な感じで香琴を自分のところで世話することに決めたの。凪沙は自分が助けなきゃって必死になって、怒ったりとかそういうのを全部封印してるわけ」

 美月は鼻息を漏らして笑ったかと思うと、俯きながら奥歯を噛みしめ、目元をそっと拭った。

 この空間にいるのが辛い。自分がどうやれば人を救えるのかも分からない。公也は混乱する自分と戦いながらその場に留まろうと必死だった。

「時々香琴いない日あるでしょ。香琴、街に行って病院に通ってるの」

「……美月、聞いていい話なのか」

「香琴はあなたを指名したのよ。あなたも受け止めるために聞いておくべきだと思うけど」

「……分かった」

「香琴、いつも笑ってても悪夢にうなされるから、色んな薬を出してもらってるの。特に睡眠薬。この間の雨の日、凪沙が帰ったでしょ。……ああいうの、時々あるのよ」

 美月の疲れ果てた声に、香琴は反応しない。美しい人形のような、生気のない少女がぽつねんと座っているだけだ。

「でもさ、日本で出てる睡眠薬って安全なものばっかって……」

「一応ね。でもあるのよ、本当に手段のない人にしか出せない劇薬に近いのが。香琴は時々それを飲むんだけど……制御効かないのね、オーバードーズするの。香琴、この間あんた吐いたんでしょ?」

 美月の問い掛けに、香琴はゆっくり首を振る。

「覚えてないと思ったわ。ああいうのって記憶飛ぶのね。私も香琴を見るまで信じられなかったもの」

「……そういうことか、分かった。でも香琴、どうしていきなりあんなこと言い出したんだ。街に戻るにしても、ここを卒業するまで待てばいいだろ」

 公也が訊ねても香琴は首を傾げながら、唇を上向ける。

「どうして自分でもそう思ったのか……よく分かんないんだ。でもナギちゃんが必死になってくれたり、そういうの見てて段々苦しくなって」

「……ハムくんが来たから、香琴を盛り上げるために探検をやろうって言い出したのが裏目に出たわね。人生ってうまくいかないものだわ」

 美月はそう呟くと、ふさぎ込むように腕で顔を覆い、縮まるように立てた膝に体を収めた。その隙間隙間から、小さな嗚咽が漏れ聞こえる。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 泣く美月を止めることも出来ず、香琴の笑顔を浮かべる心も動かせず、苛立ちから遠くかけ離れた無力を、彼は生まれて始めて感じていた。

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