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いただきます

 美貌の悪魔――アジュールが西宮櫻子のマンションで暮らすことになったその日の夕方、櫻子は独り暮らし用には少し大きめの冷蔵庫の前で、腕を組み、扉に張り付けられた紙を睨みつけていた。

 料理は割と嫌いではない、と友人に言っているように、買い物をするたびに購入した物を書きつけ、扉に張り付けてきちんと管理している。毎食作る前に、こうしてその紙を見ながら献立を考えるのが彼女の日課だ。傍目から見れば、あまりにも真剣な面持ちなので、何を作ろうかなあ、などと考えている風にはとても見えないが。


 それはともかく、今日は何を作ろうかと考えている彼女の前には、昨日買い物に行ったばかりなこともあり、割と豊富な食材のリストがある。つまり献立の選択肢が増えるというわけで、田舎の母親から節約術を叩きこまれている櫻子にとって、頭を悩ませる状況だ。それゆえの真剣な、睨みつけているようにも見える面持ちとなったわけである。


 ちらと壁掛け時計を見れば、時刻は午後6時を示している。夕食は大体7時だ。そういえば本日から同居人となった彼は普段何時頃に食べるのだろうかとふと疑問に思い、櫻子はソファに腰かけてテレビを興味深げに眺めているアジュールを振り返った。



 少し話は逸れるが、彼の住む世界――魔界にテレビはないらしい。そもそも秘密主義が多いらしく、情報開示など縁遠い環境である。伝達手段の主流は、魔鳥という小型の、所謂伝書鳩のようなものだ。情報は自ら手に入れに動くものであり、居間に寝転がって受信するものではない、とアジュールは説明した。


 ――出回っている情報はまず情報操作のためと考えるべきとの考えが浸透しているので、信用できる筋から入手したものでない限りは無価値となる。


 簡単に説明した後、しばらくテレビを眺め、しかし、とアジュールは続けた。


 ――しかし、これだけ情報が溢れていれば、自らどれを信用するか取捨選択しなければならないんでしょうね、そういう意味では、魔界の情報入手よりも難しいのかもしれません。


 一方の櫻子はといえば、どこかの教授も情報化社会うんたらかんたらと同じようなことを言っていたな、と感心した風に綺麗な横顔を眺めていた。



 お堅い評論番組を見たあと、どうやら現在はお笑い番組を鑑賞しているようだ。今一つ笑いどころが良く分からないからかくすりとも笑わないが、チャンネルを変える気はないらしく、ジッと画面を眺めている。画面から聞こえるわははは、という笑い声とアジュールの冷静な顔が嫌に対照的だ。


「あの、」


 櫻子が声をかけると、アジュールはテレビの電源を切り、体ごと向き直った。消した途端、それまでの賑やかなBGMがなくなって一段と静かに感じられた。


「何か?」


 そんなふうに改まって聞いてもらうほどのことでもないのに、と櫻子は困惑して、思わず苦笑いが零れる。


「あ、いや、いつもは何時くらいに夕ごはん食べるのか聞きたかっただけなんだけど」

「これといって決まっていないので、あなたの時間に合わせますよ」

「じゃああと1時間くらいかな。いつも7時ごろに食べるから」

「わかりました」


 アジュールはそう返事をして、櫻子が再び冷蔵庫の扉に向かった後、再びテレビのスイッチを付けた。静かな部屋にまた賑やかな笑い声が響き始める。漫才コンビの一方が、もう三日も肉じゃがが続いているんだとぼやいた。同時に櫻子の頭に本日の献立が浮かんだ。





 一脚では寂しいからと、直径1メートルほどの丸テーブルには二脚の椅子が備えてある。向かいあう椅子が埋まっていることに奇妙な感覚がして、更にいえば、座っているのが美貌の青年であることに今さらながら現実味がないなと櫻子は思った。しばらくこの生活、この光景が続くのだろうか。

 食卓にはご飯と茸と卵のお味噌汁、ほうれん草のお浸しに肉じゃが、作り置きの切干大根が並んでいる。並べられた料理とアジュールの顔を見比べ、洋食のほうがよかったかもと少し不安を覚えた。

 櫻子の気持ちを知ってか知らずか、アジュールは切干大根から箸を付けた。黙々と食べ、飲み込み、特に顔色は変わらない。続いてお味噌汁、ほうれん草のお浸し、ご飯、肉じゃがと食べていく。今日日の外国人のほとんどは箸を使えて当たり前と聞いたことがあるが、悪魔とやらの箸使いは“使える”というレベルではなく、“美しい”域に到達していた。

 流れるような所作をしげしげと眺めた後、櫻子もようやく食事を開始した。



 しばらくして食事が終わると、食後のお茶を一口飲んだ後で、アジュールがぽつりと呟いた。


「なんだか妙な感じですね」

「口に合わなかった?」

「いえ、そういう意味ではなく。邪推しないように」


 湯呑に入ったお茶に視線を落とし、ふぅと短く息を吐いた。櫻子は急須に入ったお茶を空になった自分の湯呑に次ぎながら、何か言葉を探している様子のアジュールを盗み見る。


「悪い意味ではないんです」


 そう付け加え、また一口お茶を飲んだ。“妙な感じ”について、アジュールはそれ以上何も言わなかった。二杯目のお茶も飲み終えた櫻子は、「ご馳走様でした」と手を合わせた。その様子に一瞬怪訝そうな顔をしたアジュールだったが、ふと空になったお椀に目を落とし、何か合点がいったように頷いた。その口元は僅かに弧を描いていた。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせてそう言ってから、合っていますかと問う視線を櫻子に向ける。僅かに驚いた表情の櫻子だったが、すぐに嬉しそうに笑って見せた。


「お粗末さまでした」


1/4 行間に変更を加えました。

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