邪魔するな
全てを奪い去るようなキスの嵐に、櫻子の思考回路は完全に焼き切れそうになっていた。
角度を変えて、逃すまいと息をつく暇も与えない猛攻は、ファーストキスの余韻など与えてくれるはずもない。頭上に絡め取られた両手に力を入れるもびくともしない。
ロマンチックなBGMも、甘い言葉もない。艶めかしい水音と、ため息のような熱い息遣いが聴覚を支配する。目を閉じることなどできなかった。
櫻子はただ呆然として、覆いかぶさる苦しげな表情を見つめるしかなかった。両瞼は陶酔するかのように閉じられ、それを縁どる長いまつ毛はかすかに震えている。ずるい、と櫻子は朦朧とする意識の中思った。
「ふ、あ、……や」
息継ぎの合間、切れ切れの言葉が唇の端から零れ落ちる。
身じろぎをやめない彼女にようやく気が付いたのか、アジュールは両手を縫いとめていた手を解放し、空いた手で櫻子の両頬を掴んだ。しっかりと固定し、溺れるような口づけを再開する。しかし、手が自由になったことで櫻子の抵抗が強くなり、背を強かに叩かれて不機嫌そうに顔を上げた。
荒い息遣いの櫻子を見下ろし、憮然として言う。
「邪魔、しないでください」
櫻子は後ろ頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。言葉の意味が分からなかった。きつく睨みつけると、手の甲で唇を乱暴に拭う。とたん、抑えきれない感情が迸り、盛り上がった涙があっという間に決壊した。疑問と怒りと、悲しみと、様々な感情が膨れ上がってそれぞれを主張し、どれも言葉にならない。嗚咽を上げるばかりで、悲鳴交じりになじることもできない。
それを見たアジュールは、驚いたように瞬きを繰り返した後、ふと我に返ったように櫻子に触れようとするがすべて叩き落とされた。
無言の攻勢を貫く櫻子は、ぐずぐずと鼻をすすりつつのろのろと起き上がり、どこか呆然とするアジュールをしり目に、彼の存在などまるで無視するかのように立ち上がり、部屋へと踵を返す。
どんな感情が自分をそうさせたのか、櫻子にはわからない。
網膜に焼きついた残酷な悪魔の顔はただただ美しく、それは完璧で手の届かない精巧なものではなく、ひどく愛しい、両腕でしっかりと抱きしめたくなるような、泣きたくなるような美しさだった。ただ、それでも彼は悪魔なのだ。熱いキスを重ねる相手でさえ、「邪魔」だと片付けられるような、ひどい悪魔なのだ。
悪魔が何か知らなかった。でも、きっと自分は獲物か何かなのだ。揺さぶるならば、ずっときれいでいてくれたらよかったのに。絶対に手の届かない、次元の違う美貌の悪魔でいてほしかった。櫻子の目から、涙が一筋零れ落ちる。
「……出てって」
絞り出すように言った。
この苦しみはきっと、恋の予兆だ。
触れた相手は冷たい美術品ではなく、確かな温度があった。穏やかな時を共に過ごした相手に、毎度用意した料理を平らげ満足そうな笑みを浮かべる相手に、言葉を交わし、いなくなることに寂しさを覚えた相手に、どうしたら少しも気持ちを傾けないでいられただろう。自然と押し殺した感情を無理やり引っ張りだし、先に防波堤を壊したのは、悪魔の方だったなんて、おかしいにも程がある。
振り返って顔を見れば叫びだすかもしれない。
声を聞けば、おかしくなってしまうかもしれない。
そう歯を食いしばった櫻子に、アジュールは残酷にも、縋るような声をかけた。
「――櫻子さん」
初めて名前で呼ばれたのが、この局面だなんて。
涼やかな声が名を呼び続け、櫻子はその場から一歩も動けなかった。声がだんだんと近づいてくる。耳元に息遣いが聞こえてすぐ、腰に腕が回された。
「――嫌いで別れたのではないということが、私には理解できません。恋い焦がれるならば、傍にいなければ息ができないほど苦しくなるんです。触れて、言葉を交わして、相手の息遣いを感じなければ狂いそうになる。血も涙も、すべてを手中におさめ、その視線を独占しないと気が済まないんです」
甘く艶やかな声に、櫻子はごくりと喉を鳴らした。アジュールは片方の手を櫻子の顎にかけ、僅かに震える首筋へと顔を埋めた。
「――私は、悪魔ですから」
落とされた言葉は、自嘲の色が混じっていた。動けない櫻子の耳元に、アジュールはそっと囁く。
「その身に熱い想いを滾らせて、どうして離れていられるんです? 愛しい愛しいと呼ぶくせに。―――人間とはかくも恐ろしい生き物ですね。まるで“悪魔”のようです。櫻子さん、あなたは本当に、“悪魔”のよう」
櫻子の身体から腕が離れ、アジュールの気配が遠ざかる。その瞬間、言い知れない寒気が櫻子の全身に走った。
「―――初めて、その恐ろしさを知りました」
おかしそうにアジュールがそう言った途端、バチッと強い静電気のような音が響き、櫻子がはっとして振り返ったときにはもう、そこには誰もいなかった。呆然とする櫻子の脳裏に、アジュールの言葉が繰り返し蘇る。感情的な、何かを乞うような声色が何度も櫻子を揺さぶった。
「はは……」
乾いた笑いが零れ落ちる。
自分の気持ちに、鈍くはないほうだ。
煌々としたライトの下、櫻子は舌打ちした。
「悪魔め」
おぼろげな予兆は、確信をもって現実となった。
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