閑話:諒一、愚痴を聞くだけ
諒一の那智に対する思い。
あの日の誓いは今もこの胸に――
職員室横から特別棟に伸びた渡り廊下を歩く。
五月とはいえ、少しずつ日差しが夏の熱さを帯び始めている。本格的な夏になれば、この渡り廊下に出るたびに太陽を恨めしく思うようになるだろう。
夏場の太陽は殺人的に人に厳しい。
あの日は違った。目に入るすべての色が灰色にくすむ中、太陽が顔を出すことを待ち望んでいた。
重たい色の雲が太陽を覆い隠し冷たい涙雨を降らす中、繋いだ手を取りこぼさないように何度も力を込めた。
黒く長い車に積み込まれていく優しかった伯父に泣かないですんだのは、小さな温もりが隣にいたからに他ならない。残された小さな存在が自分の隣で不安そうに瞳を揺らすから、しっかりしなければと顔を上げていられたのだ。
「りょーちゃん……パパ行っちゃうね」
感情を宿す目が自分を捉える。
「俺の横にいれば怖くないって」
手を握って存在を伝える。水滴のついた頭がこくんと縦に揺れて手に力が込められた。
信頼を寄せてくる目に胸が熱くなる。
あのときのようなうつろな目に戻さないためにも、自分が彼女を見守っていなければならない。
そう心に誓った。
伯父の死の混乱の中で、誰もが自分のことで精一杯だった。気遣うべき小さな存在の不在に気付かないくらいに皆が取り乱していた。
「ねえ、那智は?」
誰から言い出したのかは覚えていない。
自分が行くからと駆けつけた家は暗く、生の気配がなくなっていた。
居場所がなくてよく訪れた明るい空気はもうここにはない。この家の主が占領していた座布団は今は端に片づけられていた。
『おー、諒ちゃん。こっち来いって。一緒にゲームしようぜ』
耳に聞こえるはずのない声が聞こえた気がして熱くなった目頭をごしごしと擦った。
それよりも見つけなければならない存在を捜して目を泳がせる。台所にも居間にも見つけるべき相手はいなかった。
少しだけ開けられた襖の奥に小さな息遣いを感じて電気を点けたそこにいたのは、表情の抜け落ちた那智。
いつも明るく笑っていたはずの従妹が無表情に空中を見ている様は精巧な人形のよう。
「那智っ」
闇に溶け込んでいきそうな喪服の黒に、消えるはずもないのに消えてしまいそうな不安を抱いてその身体を引き寄せた。
「ごめん、ごめんなっ」
いつだって自分の味方だった小さな存在。
初めて髪を金色に染めたときも、「りょーちゃん、キンキーン。かっこいいー! 触らせてぇ」とうっとうしがる自分によじ登って頭を触ってきた。親父にしこたま殴られて頬を腫らしていてお化けみたいになっていたにも関わらずだ。
何をしても怒っても、ぶすっと頬をふくらませることはあっても恐がることをしなかった那智。
ヒヨコみたいにヨチヨチと後をついてきて自分に飛びついてくる那智がいたから、家族とも完全に断ち切れることはなかったのだと思う。
その笑顔が消えてしまったのはなにも大人たちのせいばかりではない。
混乱の中、彼女の存在を忘れていたのは自分も同じだ。
一番放っておいてはいけない存在が頭から抜けていたことに激しく後悔をした。抱きしめた身体は冷たくて、こんなふうになるまで放っておいた自分を責めた。
「りょー、ちゃん……」
声を出すことすら忘れていたような掠れた声が耳に届く。置いて行ったことを責めることもなく、何度も確かめるように呼ばれる名前に胸が締め付けられた。
泣いているのは自分のくせに「泣かないで」と頭を撫でてくる那智に、世間に反発していた自分の小ささ加減に「何をやってるんだ俺は」と心で自分を叱咤した。
この小さな手が自分を支えてくれていた。
だからこそ、もう表情のない人形に戻ることのないよう守ろうと心に決めた。
冗談めかして‘パパ’と呼ばれることがあるが、あながち間違いでもないと思う。
那智を思うこの気持ちは父親に近いのだろう。
できれば傷付いてほしくないし、助けを求められれば手を伸ばしたい。
那智のほうもその思いを感じとっているのか、困ったときや悩みごとがあるときなどは母親よりも自分の傍に寄ってくることが多かった。
けれど本当に助けてほしいと言われたことはない。
猫のように気まぐれに自分の懐に潜り込んできてはうっ憤をマシンガンのように放って去っていく。
那智は一言言うだけでいい。「諒ちゃん、助けて」、と。
そうすれば他の何もかもを放り出して助けもしよう。
那智が泣くくらいなら、狭いアパート住まいではあるが、手を取って桂木の家から引き取っても良いという覚悟さえある。
けれど、根性だけは人一倍ある那智はそうはしない。甘やかす一方で強くもあるよう育ててきたせいもあるかもしれない。
だから今は愚痴を聞くだけ……。
「うちの可愛い那智を傷つけるとか、何考えてんだあのバカ兄は。せいぜい離れてから後悔しやがれっての」
ここからでは見えない校門に向かって悪態をつく。
那智は扱いが面倒だとか文句を言いつつ、あの義理の兄に思慕を寄せている。その兄も少なからず那智を大切に扱っていると思っていたのに、今になって距離を取ろうとしているらしい。
那智を傷つけるくらいなら初めから近付くなと言いたい。あの外面笑顔で遠ざければいいのに、中途半端に近付くから那智が悩むことになるのだ。
完全に距離ができてしまってから後悔するのは果たしてどちらか。
車のカギを確認するためにポケットに手を入れるとカサリとナイロンの袋が音をあげた。
取り出した袋の中で色とりどりの金平糖たちがキラキラと光を放つ。それを星と例えた自分に嬉しそうに笑った顔が脳裏に浮かぶ。
彼女は何を思って恭平の傍にいるのだろうか。
那智は恭平と彼女が一緒にいることにイラだっているのだろうと指摘してきたが、正確には違う。
あるのは不安ではなく心配する心。
何かを抱えている彼女が自ら選んで恭平の傍についているように感じるのは気のせいではないだろう。そこにある感情がどういうものであるかは分からないが。
考えなしに桂木兄妹の間に入り込むような子だとは思えない。
「星を返すってどういう意味だよ」
あのメモの意味は自分とは約束のたぐいはできないということだろうか。袋の中の金平糖たちは答えなく光を透かす。
「なら、なんであのとき約束って言ったんだよ……」
いらないと言われてなお、ポケットに忍ばせ続ける意味は誰に言われなくても分かっている。
ナイロンの袋を振ると、シャランと金平糖同士が震えて音を立てた。
「木村せんせーっ。うちのクラスの課題プリント集めて机に置いといたからねー」
前方からやってきた赤茶色の髪の男子生徒が自分に声をかけて通り過ぎていく。
今日は彼が日直だったのだろう。今日の放課後までの提出期限だった課題を揃えて持って来てくれたらしい。ナンパな見かけと違ってやることはきちんとやる生徒だ。
彼に対してはカメラを持ち歩いて写真を撮っている姿をよく見かける。カメラ小僧と呼ぶには様になり過ぎていて、そのカメラを構える姿はカメラマンと称しても問題はないくらい。
今は愛用のカメラは持参してはいないようだ。その手には何も持っていなかった。
「土屋は見かけによらず真面目だよなぁ」
通り過ぎる間際に声をかけると、女性受けするその顔が振り返ってにんまりと笑顔を形作った。
「えーっ。オレって至って真面目よ?」
少したれ目がちな目元に惹かれて女子が群がるのは分からないでもない。
顔面偏差値で言うと上位の部類に入るであろう彼が実際に女子に囲まれている姿もよく目にしている。
「真面目な人間は女子に追っかけまわされたりしないと思うがな」
彼の肩越し、職員室側の普通校舎の影から鬼のような形相をした女子が土屋を睨み付けていた。
「と~う~ご~っ!」
何らかのトラブルが起こったのは明白だが、男女間のいざこざに首を突っ込む気はさらさらない。
「うわっ、ミチルっ!?」
「あんまり女を泣かせるなよー」
走って特別棟に戻っていく後ろ姿にやる気のない声援を送った。
「冬吾先輩っ!」
「那智!?」
驚いたのは、その先でさっきまで机の下で丸くなっていた猫が逃げる土屋を見て眉を吊り上げていたから。
何故那智が彼に対して怒気を放っているのだろうか。
自分が職員室へ向かって帰ってくるまでのわずかな時間の間で、土屋が那智を怒らせる何かをしたとでもいうのか。
彼は根は真面目だが誠実さに欠ける。
時折、那智から彼に対する愚痴を聞くこともあった。大抵は「あの人邪魔」とか「人に近付きすぎ」とかそんな言葉が付随していたが。話を聞く限り、那智は土屋に対して良い印象を抱いてはいないようだった。
どうせからかうか何かして怒らせたに違いない。
「ごめん、話は後で聞くから!」
「えっ、きゃあっ」
走る土屋が鼻息を荒くする那智の腕を取って共に走り出す。その後ろを髪をふり乱した女子生徒が追いかける。
「おーい、一緒に帰るんじゃなかったのかよ」
那智のことは見守りはするが、過剰の甘やかしは避けることにしている。
むやみやたらと手を貸して助けたところで本人のためにはならない。というか、あれを追いかけるのは正直面倒くさい。
走り去った猫がまた戻ってくるかもしれないので、自分の中で三十分の猶予を設けて国語科準備室で待とうと、ゆったりとしたペースで渡り廊下を抜けた。
そろそろ本題に入りたい・・・。




