27 君を愛することはないけど君の描かれた絵の君は好きって?ぶん殴っていいかしら。人の都合のいい理想像でも愛を求める愚かな妻でもない
「君を愛することはできない。僕には、好きな人がいる」
夫であるヒックスから告げられたのは、結婚して五年目の穏やかな春の夕暮れ。口調は今日の天気の話でもするかのように淡々としていて、罪悪感や迷いの色は微塵もなかった。
窓の外では夕日が地平線に沈もうとしていて、赤い光がヒックスの端正な顔を不気味なほど鮮やかに照らす。
「そう」
自分でも驚くほど静かなものだった。五年間、社交界では絵に描いたような模範的な夫婦として振る舞ってきたが寝室が別になって久しい。彼の心にレーミレがいないことくらい、とっくに気づいていた。
「……君も、自由に生きてくれて構わない。婚姻関係は領地と社交上の体裁のため維持する。財産はもちろん平等に分けるし、商会への援助も続けるつもりだ」
ヒックスは一通の書類をテーブルに置いた。今後の方針を記した、抜け目のない契約書。
「結構よ」
書類には目もくれず微笑んだ。凍り付いたような完璧な笑顔。
「ヒックス様がご自分の望むままにされるなら、私も私の好きなようにさせていただきます」
自身の世界がある。結婚の少し前から父から引き継いだローゼン商会の経営を密かに続けていた。伯爵夫人としての役割と両立させるのは容易ではなかったが、心の拠り所だった。
「ならば、好きにしましょう」
次の日から社交の場での完璧な伯爵夫人という仮面を、さらに強固なものにした。裏で商会の仕事に今まで以上に没頭。そこで終わらない。
ある日、商会の大きな契約を成立させた夜、ヒックスの書斎で彼が酒を飲みながらぼんやりと呟いた言葉を耳にしてしまった。
「ああ、彼女が欲しい。私の、ただ一人の……」
視線の先には壁に飾られた一枚の肖像画。己が描かせた自身の姿。その瞬間、頭の中に冷たい水が流れ込んだ。ヒックスの好きな人は、他ならぬ自分。
目の前の伯爵夫人ではなく、自分とは無関係の遠い理想の存在として愛している。目の前の生身の妻を愛することは拒絶し、作り上げられた偶像として求める。
なんと身勝手で滑稽なことだろう。幻滅は怒りよりも悲しみよりも、全てを無に帰す乾いた砂漠。
仮面夫婦として過ごす日々が始まったことでヒックスはもう、夫ではなくなった。屋敷の住人。領地を共有する赤の他人。
ある晩、珍しくヒックスが私の部屋を訪れ何か言いたげに戸口に立っていた。いつものように完璧な夜着を纏い、顔にはいつもの無関心な微笑みを浮かべて。
「ヒックス様。何かご用でいらっしゃいますか?」
編み物をする手を止めずに尋ねた声は、社交の場で会ったほとんど面識のない他所の伯爵に向けるものと同じ、礼儀正しく感情のない響きを帯びていた。
「いや……その……君の顔を見に」
言いながら目を見ようとしない。偶像を壊すのが怖いとでも言うように。
「おかしなことを仰いますね。昨日も夕食の席でヒックス様の向かいに座っておりましたよ」
はっきりと告げた。
「お疲れなのでしょう。もうお休みになられてはいかがですか? それともローゼン商会へのご相談であれば、明日の午前中、秘書を通していただければ対応いたしますが」
「な」
ヒックスの顔から血の気が引いた。完全に公私を分けた事務的な他者として、扱われていることを理解しただろう。そして、何も言わずに部屋の温度が氷点下になったかのように急いで退室した。
去ったドアを静かに見つめ、レーミレは編み物を再開する。これでいい。もう、あの人の都合のいい理想像でも愛を求める愚かな妻でもない。
ローゼン商会の当主として自身の人生を生きることだけを考えよう。




