第45話『燃える恋にも灰が出る』
空に浮かぶ箒に腰をかけ、森の枝葉を見下ろす女は、まるでヴァンデロたちが見えているかのようだった。
見た目は30歳前後。黒のトンガリ帽子と、黒のマーメイドドレスをまとった妖艶な雰囲気の女だった。
ウェーブを描く艶やかな黒髪と、大胆に覗かせた白い肩が、月光を跳ね返して静かな色気を漂わせている。オリーブのような緑色の瞳は、穏やかでありながら、相手の全てを掌握しているようなしたたかさがあった。
いい女だと思った。曲線に富んだ女性的なボディラインも、簡単には落とせなさそうな風格も、ヴァンデロたちの生まれた火の国では、男に大層受ける要素だ。
彼女が火の国に来ることがあれば、何十人もの男が彼女のための料理を追求し、国中の食材を絶やすだろう。そう思えるだけのオーラがあった。
しかしそれは、彼女の持つ『とある要素』がなければの話だ。
――視認できる限りでは、彼女の片目の周り。それから片腕が、紫に変色してひび割れていた。まるでそこだけ、菫青石に変えられてしまったようだった。
あまりにも異質なそれはきっと、彼女に恋する男たちの酔い覚ましになった。
「テメェ、いったい何モンだ? 魔女にしか見えねェが……魔女じゃねェよな」
ヴァンデロが尋ねると、女は口元に手を添えてフッと笑った。
「無粋な男だ。先に女から名前を聞き出そうとは。まあいい。私はオリヴィエ。恋の魔法使いさ。今はこのような見た目だが、元は君たちと同じ男だよ」
「……は?」
ヴァンデロは固まった。いつもは感情のわかりにくいオスカーも、隣ではっきりと、困惑を顔に浮かべていた。
存在しないはずの『魔女』だと思っていた人物は、性別を変えた元男。その事実は、ヴァンデロたちの納得を呼び起こすと共に、新しい疑問を2人に連れてきた。
「……なんのために」
相手を分析する時間を稼ごう、という考えより先に、純粋な興味が湧いてヴァンデロは尋ねた。オリヴィエは何故か、誇らしげに胸を張った。
「言っただろう? 恋の魔法使いだと。私はとにかく惚れっぽくてね。男にも女にも恋をするのさ。その性質上、性別を使い分けられたほうが都合がいいんだよ。男と女の役割がきっちり分けられてる、火の国の男にはわからないだろうが」
「……どうして、火の国だと思った」
「どちらも有名人だからね。火の国一のギャングのボスと、ここ数年生き永らえているプリマステラの眷属。顔と出身地くらいは把握してるもんさ」
オリヴィエは、蛇のような舌で唇を舐めた後、はあ、ともったいぶるように嘆息した。
「しかしまあ、残念だね。お前の魔法には前から目をつけていたというのに」
「……何?」
「五感を操る魔法のことさ。私の魔法は『魅了した人間の全てを奪う』というものなんだが、奪えるものには魔法も含まれていてね。もし、私の使い魔であるメルティークが、お前を魅了できていたら。お前の魔法も私のものになったんだよ」
オリヴィエは目を細めた。大事なものを仕方なく手放すような、惜別の眼差しでヴァンデロを見ていた。
――魔力を奪う。そんなことが出来るのか。相手を魅了する、たったそれだけの条件で。
「……待て。なんで肝心な『魅了』の部分を、あのガキに任せてるんだ? テメェの魔法なんじゃねェのか。テメェ自身が魅了しに来いよ」
「そこだ。そこが問題なのさ」
オリヴィエは、自身の豊かな胸元に手を置いた。
「自慢するようだが、私のこの容姿だ。それに、メルティークにも教えた『変化の魔法』がある。本当は、魔法を奪うのに誰かを頼る必要なんてないんだよ。だが……数年前、いや数十年前だったかな。先程話したフェリックという男が、負け知らずだった私の顔に傷をつけたんだよ。文字通りにね」
帽子のつばを持ち上げるオリヴィエ。ひび割れた宝石のような目元が、月光を反射して淡く輝いた。
「フェリックは昔、私が気まぐれに飼っていたんだ。だけどある日、彼と揉め事になってね。私はフェリックを瀕死に追い込んで……息の根を止めようとした。その瞬間、仕返しに彼の魔法を食らったんだ。身体が石になって砕ける魔法だよ」
まるで、忌まわしいものを隠すように。オリヴィエは、先程よりも深く帽子のつばを下げた。
「常に治癒魔法を施し続け、なんとか人の形を保っているが……いつ壊れてもおかしくない、もろい身体になってしまったんだ。だから、変化の魔法を使うのも解くのも恐ろしくてね。ここしばらくは、誰かの見た目になりたくても、男に戻りたくなっても、実行できずにいるんだよ」
「……」
「反動を食らうような大仰な魔法も、ここのところはメルティークたち使い魔に任せる始末だ。主人だってのに情けない話だろう?」
自嘲気味に目を瞑るオリヴィエ。しかし次に開かれた瞳には、静かな怒りの火が燃えていた。
「……だが、そんな問題は二の次だ。本当の問題は、以前のような恋が出来なくなってしまったことだ」
オリヴィエは、そっと目元のヒビに触れた。
「どんなに見た目が美しくとも、顔がひび割れた奇妙な女には誰も魅了されない。当然だ。しかし、受け入れるわけにはいかないんだ。私は恋の魔法使い。私に恋した人間に、その全てを捧げてもらうことこそ最上の喜びだ」
――森の空気が変わる。内蔵を押し潰すようなじっとりと重たい感触に、ヴァンデロは頬を固くした。サングラスを胸元にしまい、手にした葉巻に口をつける。
そして、紫煙をゆっくりと吐き出した。視覚・嗅覚・聴覚に作用する強化魔法を練り込んで。それだけの行為だったが、煙に巻き込ませた義兄には、彼の石が伝わったようだった。蜂蜜色の瞳が、無言でヴァンデロを盗み見た。
同時に、巨大な何かが森を揺らす気配がした。
「私はお前たちを糧にして、フェリックにもう1度挑む。彼を殺し、忌まわしいこの魔法を解いて、再び恋を謳歌する。巻き込んだことは申し訳ないが……恋に生きる女の悲願に、協力してやってくれないか?」
「ハッ、協力? 何にだ。テメェらにとって、誰にも魅了されてねェ俺たちに用はねえ。あとは、生ゴミを処理するだけだろ」
「そうだな。だからこの場合は、私に手間をかけさせずに死んでくれ、という意味だ。……もっとも、はなからお前たちに、従ってくれる気はなさそうだが」
空を飛ぶオリヴィエの背後に、ぬっと巨大な影が首をもたげる。蛇だ。夜の森に似た暗緑色の、周囲の木々よりもひと回り大きな蛇。それが、空高く持ち上げた尾をヴァンデロたちに振り下ろした。
「さあ、追いかけっこの時間だ」
*
私とサイカは身をかがめて、そそくさと劇場から抜け出した。まだルカの舞台は続いていたし、結末を見届けたかったんだけど……。
テレパシーの途絶えたヴァンデロさんが気になったし、そのせいで舞台の内容もまったく入ってこなかったので、後ろ髪を引かれつつも個展会場に向かうことにしたのだった。
そして劇場のロビーで、私たちはリッカに遭遇した。
リッカはかなり取り乱しているようだった。受付のスタッフのお兄さん2人に押さえつけられ、何かを口早にまくし立てている。
確か彼は、ヴァンデロさんと偶然出会って、行動を共にしていたはずだけど……あの慌てよう。もしかしたらヴァンデロさんに何かあったのかもしれない。
私は嫌な予感に息を飲んで、今にも増援を呼ばれそうなリッカに駆け寄っていった。
「す、すみません! その人、離してもらえませんか……!?」
ばっ、と全員が同時に私を見た。スタッフの1人は一瞬、面倒ごとが増えたと言いたげな顔をした。けれどもう1人に何かを囁かれ、しぶしぶリッカから手を離した。リッカは硬直して動かなかった。
囁いたほうのスタッフさんが口を開いた。
「プリマステラ様。この方はお知り合いですか? 先程からしきりに、プリマステラを連れてきてほしいと言っていて……」
「そ、そうです! お騒がせしてすみません。えっと……どこか落ち着いて話せる場所に行きましょう。立てそうですか? リッカさん」
「あ、はい……すみません……」
リッカは叱られた子犬のように小さくなり、立ち上がるや否や、お兄さんたちにぺこぺこと頭を下げた。
それから私たちは、ロビーの隅に集まった。今回が初対面のリッカとサイカが、手短に自分を紹介すると、話題はさっそく個展会場の件へと移った。
リッカから聞いたのは、以下の内容だった。
個展会場に、メルティークという女の子が現れたこと。彼女は人形であること。その子の従えた別の人形たちに、ヴァンデロさんが襲われたこと。
メルティークの目的は、『恋心』と呼ばれる何かを集めること。おそらく『恋心』を集めると魔力を相手から奪えること。
現在リッカはメルティークの標的になっていること。メルティークは会場の外までは追ってこないこと。メルティークは私――ステラの姿に化けていること。
「……ん?」
私は引っかかった。なんでメルティークは、私の姿に化けたんだろう。それってまるで、リッカが私に恋愛感情を抱いているみたいだ。いや、『恋心』はそういう隠喩で、実際の恋愛感情とは関係ないのかもしれないけど……。
私が首を捻っていると、ふいにリッカが、サイカに向かって勢いよく頭を下げた。
「わっ! なんだ?」
「お……お願いがあります、サイカさん! メルティークと……他の人形たちを、倒してくれませんか!?」
「いいぜ!」
「いいんですか!?」
間髪をいれない快い返答に、顔を上げたリッカは目を白黒させていた。サイカもまた、お尻のポケットから軍手を取り出しながら、不思議そうに首を傾げた。
「え、うん。ダメな理由ないし……よっしゃ、早速行ってきていいか? ステラは連れていかなくてもいいのか? 俺の戦い方、周りのヤツも巻き込んじまうからさー。なるべく連れていきたくねーんだけど……」
「あっ……はい。多分、大丈夫っす……」
「よかった! じゃあ、行ってくる!」
軍手をはめた白い手を掲げ、にこやかに走り去っていくサイカ。その背中を見送るリッカは、まるで異星人に遭遇したように呆然としていた。
……たしかに、サイカとリッカは別の星の人間みたいなものだろう。
「えっと、私は何か言われてましたか……? これをしてほしいとか……」
私がおずおずと尋ねると、リッカは思い出したように瞬きをした。
「そ、そうだ。それで、いま舞台をやってるルカさんって人に会いたいんすけど……連れていってもらえませんか?」
「る、ルカですか?」
「はい。シエルシータさんって人を呼ぶのに、ルカさんの『妖精』? が使えるかもしれなくて……使えないかもしれないんすけど! ……魔法や、魔法使いがミュージアムの外に通用しない、出られない今、頼れそうなのがそれしかないって」
声音に不安を滲ませ、言葉尻を小さくしていくリッカに、私は口をつぐんだ。
いま動けるのは、サイカとリッカ。あとは『星の杖』を持ってる私だけ。ルカは国王様も観る大事な舞台の最中だし、ヴァンデロさんとオスカーさんはどんな状態かわからない。屋敷にいるだろうシエルシータを呼ぶのは、妙案だと思う。
でも――
自分の出番が終わって、次の出番を舞台裏で待つルカに『妖精を貸してほしい』とお願いしていいものだろうか。
事情を説明しなくても、ルカはきっと気にするはずだ。このミュージアムが危険に晒されているんじゃないか、仲間が血を流しているんじゃないかって。
だけど、せっかくの大舞台なんだ。私としては、ルカに気兼ねなく最後までやり遂げてほしい。だから……。
「ごめんなさい、リッカさん。私、ルカの力は……借りられません」
「えっ!? で、でも……」
「代わりに、私たちに協力してもらえないか、お願いしたい人がいるんです。今から、その人に会って……」
「その必要はないよ」
ふと、背後から声がした。振り返るとそこにいたのは、今まさに私が会いに行こうとした人――フェリックさんだった。
彼は、相変わらず柔らかな笑みをたたえながら、私たちのもとにやってきた。
「え、どうして……」
フェリックさんは、劇団オロ・レオーネの装飾担当でもあるはずだ。舞台前にルカの王冠を直してあげていたみたいに、舞台中に装飾が壊れたときのために、舞台裏に控えているんだとばかり思ってたんだけど……。
「いやぁ、本当は抜け出しちゃいけないんだけどさ。馴染みのあるいや〜な気配がするから、こっそり調査しに来ちゃった。まぁでも、『スター俳優、ルカ・アトリーシェ魔法使い狩りにて死す』なんて一面が出るよりマシだよねえ」
「……馴染みのあるって、フェリックさん……犯人のことわかるんですか……?」
「わかるよ。昔、一緒に暮らしてた人なんだ。いろいろあって喧嘩別れしちゃったんだけどね。……多分、国立ミュージアムを魔法使い用のトラップに変えたこの大掛かりな計画は、恨んでいる僕を殺すためのものなんだろう」
フェリックさんは嘆息した。元恋人の悪癖を思い出して、懐かしく思うような、呆れ果てたような、感情のこもった溜息だった。
「だから、これは僕に責任がある。巻き込んでしまったお詫びだよ。君たちに協力させてくれないかな」
「……それは、凄くありがたいんですけど……」
大勢を巻き込んででも殺したいくらいの喧嘩別れって、フェリックさんは何をしたんだろうか。私とリッカは恐々としつつ、彼と行動を共にすることを決めた。




