革命の予兆2
「カレン、無事ですか」
「あ、ああ。耳が変だけど、大丈夫。何だったんだ一体」
「恐らく、敵襲です」
「敵襲ッ!?」
ビクリと肩を震わせるカレンを立ち上がらせ、混乱を極めた食堂を見渡す。轟音と衝撃によって平衡感覚を失った生徒達が重なり合うように倒れ。腫れた足、流血した頭を抱えて蹲る生徒も少なくはない。
意識の欄外から突然襲ってきた異常事態に、生徒達は痛みに呻き、食堂の窓の外に広がる帝都の惨状に口を開け、目を白黒させて立ち尽くすばかりだ。
「酷い……」
「ですが、幸い死者はいないようですね。カレン、できる限りでいいので、皆さんに手当をしてあげてくれませんか」
「わかった」
普段から頼もしいカレンだが、非常時は一層頼もしくなる。火水風の三系統を自在に操る上級魔法使いでもあるカレンは、杖を抜くと水系統を駆使し、次々と治療を開始する。彼女の背中を見て、己に課せられた使命を思い出した学園の優秀な魔法使い達は、杖を抜くと、負傷者の治療を開始し、ものの数分で、食堂内の負傷者はゼロとなった。
暫くすると、教師達が食堂に駆け込んできて、生徒達の避難が開始される。教師の到着が遅れた原因として、二階にいる貴族生徒の避難を最優先で行ったかららしい。
この非常時に不平を垂れても無意味なことを理解しているマニエールの学生達は、教師の指示に従って冷静に避難を開始した。
本来の避難先は、入学式を行った大講堂なのだが、爆風が直撃し、壁が一部崩れ、ガラスや瓦礫が散乱していて天井崩落の危険もあるらしい。生徒一行は教師指示のもと、第二の避難先である校庭へと向かっていく。
土系統を行使できる生徒が一丸となり、巨大な地下施設を即席で建造しているらしいのだ。土系統には適性の無いカレンだが、火系統の適性と魔力量をかわれたらしい。ついさっき声を掛けられ、列を離れて校庭の方に走っていった。貴重な魔法薬の類を湯水の如く消費し、魔力消費を補って、堅牢なシェルターを造ろうとしているのだろう。
「シルフィール、無事か! 怪我は無いか!」
「え、あ、はい」
途中、教練の筋肉教師に呼び止められるシルフィール。教師は額の切傷から流血していたが、気にも留めずに胸を撫で下ろしている。トートス王国の王族であるが故に、教師は最優先で彼女の身の安全を確保しようと奔走していたのだろう。
「さあ、こっちだ」
すると教師は、シルフィールの腕をがっちりと掴んで、一般生徒の列から引き摺り出そうとする。だが、レベル六百のレッドドラゴンを屠る彼女を教師が動かせるはずもなく。地に根を張り巡らせたかのように、シルフィールは微動だにしない。
「私をどこに連れていくのですか?」
「……安全な場所だ」
教師は詳細な説明をしなかった。周囲の生徒を気にしている様子が見てとれる。
「王侯貴族専用の避難施設がこことは別にあるんですね?」
「…………」
図星のようだ。シルフィールは教師を非難するつもりはなかった。彼も教師の前に、人として必死なのだろう。高貴な身分の生徒に何かあれば、監督責任に問われかねない。しかもシルフィールはトートス王国の王族だ。いかにSSSランク冒険者でも、万が一はあってはならないのだろう。
「わかりました。案内してください」
これ以上、教師を困らせるのも本意ではないので、カレン達には申し訳ないが専用の避難施設に向かうことにする。平民生徒の列を離れ、教師の背を追って、大講堂方面へと進んで行くと。
「――!」
校庭方面から斬撃音と魔力光が届き、悲鳴と怒声が聞えてきた。
即座に踵を返し、疾走するシルフィール。筋肉教師の怒声など知ったことではない。あそこにはカレン達がいるのだ。
「……ッ」
それはもう、目にしただけで吐き気を催すほどの、惨たらしい光景であった。
鮮血と黄土色。むせ返る鉄の香りに飛び散る肉片。マニエールの校庭に一つの地獄が具現していた。シルフィールが茫然としている間も、教師の一人、無残な死を遂げる。
「なに、あれ」
中腰で這うように二足歩行する肉と金属の塊。としか言いようのない、これまで見てきたどんな魔物とも違う異質な怪物であった。それが、見渡す限りでも三十体は校庭に出現し、手にする自動小銃で、一線を退いたとはいえ熟練の戦士であるマニエールの教師達を一方的に殺している。銃という武器に対する嘲りと無知が招いた結果だろう。
鋭い勘の持ち主であるカレンは、早々に敵武装の危険性を察知し、建設が進められていたシェルターの穴の中に身を隠しており、無事のようだ。
シルフィールは、新種の魔物と遭遇した時のマニュアルに従い、懐中時計型のレベル測定器をかざす。体内に魔結晶を宿していることを知らせるランプが灯り、その数秒後、液晶ディスプレイに、百と表示された。
「レベル百――」
ドラゴン連山のシルバーウルフと同等のレベル。それが最低でも三十体。
(大丈夫。それなら平気)
――負ける気がしなかった。
シャランと、涼しげな音と共にシルフィールは愛剣を抜き放つ。レベル五千、ホワイトドラゴンの鱗を鋳溶かし鋳造した宝剣である。
その美しき刀身を掲げ、柄を握り締める。シルフィールは弾かれたように地を駆けた。
「――はあッ!」
有機物と無機物を練り上げたような醜悪な魔物の一体を、脳天から一刀両断する。この愛剣ならば、魔物に細部に埋め込まれた用途不明の金属パーツも抵抗なく切断できた。
瞬間に流れ込んでくる経験値。この物体が、確かに魔物であることを自分の肉体が教えてくれる。こんなにも醜悪な魔物ですら、糧に変えてしまう自分の体に辟易しながら、二体、三体目も同様に斬り伏せた。
カレンが叫んだ。
「シルフィー、後ろッ!」
その警告が言わんとしている意味を瞬時に把握したシルフィールは、剣の腹で顔を庇いながら振り返る。ビシビシと鈍い衝撃が全身に伝わった。撃たれたようだが、問題はない。己はレベル六百であり、己が纏っているのは、剣と同じくホワイトドラゴン製の鎧である。高出力のレーザー兵器ならまだしも、貧相な豆鉄砲では痛くも痒くもない。
「なめるなッ!」
その歪な魔物を、銃もろとも袈裟斬りにする。魔物は斜めにスライスされ、臓物を撒き散らして生き絶えた。
シルフィールは一心に剣を振るい、魔物を斬り刻んだ。
放たれた無数の弾丸を剣で払い、鎧で受け止め、接近する。真横に一閃。半月状の斬撃が三体の魔物を一度に薙いだ。
そこから振り向き様に斬り伏せ、地を蹴って高く舞い上がる。後方宙返り。魔力を一切用いない純粋な筋力のみの跳躍であったが、彼女は優に四メートルも飛び上がっていた。
シルフィールの動きをなぞるように銃弾が発射される。だが、掠りもしない。
着地地点の魔物を頭上から振り下ろした刃で両断し、体を遠心させて三方を一閃。動き回れるだけのスペースを確保し、敵中を駆け抜けながら生き残りを休みなく斬り捨てていった。
「ふう。こんなもんか」
全ての魔物が動かなくなったことを確認し、刀身に付着した緑色の粘液を払いながら、呟くシルフィール。
瞬間、校舎側から歓声が巻き起こった。
「――っ!?」
びくりと肩を震わせて振り向くと、マニエールの生徒およそ三百名が、シルフィールの名を呼び、称えていた。
魔物は戦闘開始直後から数を増やし、結局百に迫る魔物の骸が校庭に散りばめることとなった。市街地の方では、依然として発砲音が絶えず鳴り響いているが、一先ず、危機は去ったようである。
普段から師と仰ぎ、頼りにしてきたマニエールの腕利き教師が成す術なくバタバタと倒れていく中、颯爽と現れ、脅威を撃滅するというシルフィールの英雄的行動に、誰も彼もが感謝していた。気恥しくなったシルフィールは、耳を赤らめ、ぎこちなく手を振り返す。一層、歓声は高まった。
「シルフィール!」
「カレン! よかった無事でしたか」
感極まったカレンが、魔物の体液で汚れたシルフィールを迷いなく抱きしめた。
「沢山攻撃されていただろ? 怪我はないのか?」
「はい、あの程度ならば、問題ありません」
「そ、そっか。よかったぁ」
「カレン、私はかすり傷もありません。負傷者の治療をお願いします」
「わかった」
二言三言交わすと、カレンは怪我人の手当てを始めた。
シルフィールが声を張り上げ、生徒達に救援を求めると、水系統に心得がある生徒が続々と集まった。
銃弾を受けたが、運良く致命傷には至らなかった教師と生徒が息を吹き返していく。
しかし教師は十名が即死しており、生徒は七名が懸命の治療もむなしく息を引き取った。非常時故に仕方なしと、高僧に任せることなく、骸はこの場で火葬とした。
惑星アルカディアは、大気も地中も、魔力で満ちている。土葬は元から選択肢になく、葬儀は僧侶による火葬のみ。人間の骸は、放って置くと高確率でゾンビやワイトと化してしまうのである。
火炎に包まれた十七体の骸へ、わずかながら黙祷が捧げられる。だが、街での銃声は鳴り止むことはなく、静寂は終ぞ訪れなかった。
「シルフィール。私達は、これからどうすればいい」
カレンの問い掛けはこの場にいる生徒全員の心情を表している。固唾を飲んで、シルフィールの言葉を待つ。
「学園の外には、先ほどの魔物が無数に徘徊していることが予想されます。魔物は、肉体能力的にはトロく、非力ですが、所持している武器が大変危険です。鋼鉄製のプレートアーマーだけでは防げないでしょう。飛翔体は矢よりも遥かに速く、小さい為、回避するのは困難を極めます。敵の攻撃は肉厚の金属盾か、防御に適した魔法で防ぐしかありません」
「…………」
生徒達はシルフィールの言葉に傾注していた。皆、極めて真剣な面持ちだ。
「学園の外に出れば、常に死の危険に晒されます。それでも構わないという人だけ、私と共に来てください。市民の救出に向かいます」
「シルフィール、私は絶対について行くぞ」
真っ先に戦闘員を志願したのはカレンだった。
「俺を連れて行け」「私もお願い」「俺も」と実技コースの生徒の大半が戦いを決意する。そんな中、一人の女子生徒が名乗りを上げた。
「私も、志願いたします」
その声に聞き覚えのある生徒達は、ギョッとして声の主に戸惑いと奇異の視線を向ける。誰もが考えもしなかった生徒が現れたからだ。これにはシルフィールも戸惑いを隠せない。
「えっと、構いませんけど。ですが、その、皇女カトレーヌ、本当にいいんですか?」
「もちろんです。私はこれでも皇族の端くれ、外敵に侵されている帝都を前に、黙ってなどいられません!」
それに、と言い含みながらエルトシル帝国第二皇女カトレーヌは杖を抜く。
「私を連れて行けばきっと役立ちますわ。水系統しか使えぬ非才の身ながら、魔力保有量だけは千五百と、人一倍ありますの。治療ならばお任せください」
「それなら、ぜひ。皇女カトレーヌ」
「カトレーヌで構いませんわ。シルフィール」
「はい、カトレーヌ」
最終的に救出班は六十名を超え、シルフィールとカレンのクラスメイトである六学年実技科は全員、剣と杖を携えていた。
「近接戦闘を行う人は必ず頑丈な盾を持ってください。マニエールに残る人達は、シェルターの建設をお願いします。再び、あの魔物が学園内に現れた場合は、長時間隠れられる頑丈な壁を土系統魔法で築き、長距離から弓や魔法で攻撃してください。――では、行きましょう」
シルフィール一行は教師達の制止を振り切り、黒煙に煙る帝都へと向かう。
「カトレーヌ、この人の治療を」
「はい」
「カレン、一旦学園に戻りましょう。重傷者の運搬をお願いします」
「任せてくれ」
帝都は目を覆ってしまいたくなる程に酷い有様だった。見渡す限り、硝煙と血と瓦礫の山。執拗に銃で撃たれ原型を留めていない死体や体の一部が、どこに目を向けても視界に入ってくる。そして死体以上に、深い傷を負った瀕死の人々が、道端に倒れていた。
「走れる人は走ってください!」
頬を煤で汚したシルフィールは、保護した二十名あまりの人々に指示する。軽傷重傷を負った大勢の老若男女を前に、生存者達は震える足を奮い立たせ、瓦礫の散乱する足場の悪い道をゆく。
市街地に到着したシルフィールは、六十名を二十の班に分け、帝都に散開させた。班には可能な限り、前衛の盾持ちと水系統が扱える魔法使いを振り分け、治療だけでなく、戦闘にも耐え得る構成にした。
シルフィールの下した指示は一つ。自分の命を最優先しつつ、生存者を学園へ連れて行くことだ。学園には、非常時における避難施設としての側面がある為、非常食が大量に備蓄されている。水に関しても、三年前にトートス王国より輸入した新型の大型魔力炉が五基設置されているので、これまで通りの使い放題とはいかないが、困窮することはないだろう。
「もう少しです! 頑張ってください!」
救出活動を開始して既に三時間。シルフィール達救出隊は、多大な成果を上げていた。
三千名の人命を死地から救い出すことに成功したのである。
しかし、犠牲者も少なくはない。マニエール生徒は六名が戦死した。二つの班が消滅したのである。そして全員が、シルフィールとカレンのクラスメイトだった。シルフィールは特別彼らと親しかった訳ではないが、日々鍛錬に励み、野外遠征では同じ釜の飯を食べた仲であった。名前を聞けば、彼らの顔が脳裏に浮かぶ。
今は心を凍らせ、機械的に救出を進める他ない。悲しむのは全てが終わってからで十分だ。
「シルフィー、敵だ!」
「――!」
見ると、あの銃を構えた四体の魔物が、列の進行を防ぐように出現し、銃を乱射していた。とっさに水系統魔法を行使して水の壁を築いたカレンだったが、わずかに遅く、銃弾を全身に浴びた一人の男性が即死していた。胸部や腹部に被弾した負傷者も三名出て、地面を転がって悶え苦しんでいる。
殿を務めていたシルフィールは、全速力で列の先端に辿り付くと一刀のもとに魔物を撃滅する。溜息を吐く時間を惜しんで、カレンのもとに駆け寄り負傷者の容態を聞く。
おびただしい血液を流す男性を前に頭を振るカレンと、泣き崩れる幼い子供。遺体から子供を強引に引き放し、孤児院の院長だという恰幅のよい女性に預けた。
一行は、一層足早で先を急ぐ。
学園の厳めしい校門が、今は頼もしく思える。口ぐちに助かったと口にする生存者達。表情にも安堵が浮かんでいた。
「学園には、水も食糧も沢山にある。皆もう少しだ!」
先頭を行くカレンが、声を張り上げて励ました。彼女は、魔力欠乏症で青い顔をしながらも弱音一つ吐かずに己の役目を十全にこなす。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
カトレーヌも同じく魔力欠乏症に苦しんでいるようで、足取りがおぼつかない。血の気の失せた顔で何度も瓦礫に躓きかけている。心配してくれる子供に精一杯の笑顔を見せていた。
学園まで残り百メートル。ここまで来れば辿りついたも同然だ。だがそこで、生還した市民達を嘲笑うように、シルフィールの懐中時計型レベル測定器から警報が鳴る。
瞬間、背筋を耐えがたい怖気が走る。
「――――」
「シルフィール、何かあったのか?」
聞くだけで精神の均衡を崩してしまいそうな、強い不快感を抱かせる警報はまだ鳴り止まない。懐中時計を手にしたまま硬直しているシルフィールを心配してか、カレンが声を掛けた。しかし、シルフィールは金縛りにあったかのように動かない。
「シルフィール?」
彼女は、小刻みに肩を震わせていた。カレンは、最初泣いているのかとも思ったが、どうもそんな様子ではない。カレンは、シルフィールが恐慌状態にあるのだと理解するまでに暫しの時間が必要だった。あの、愛剣を握らせれば勇敢で無敵な彼女が、幼子のように怯えているのが信じられなかったのだ。
レベル五千以上の魔物が半径二キロ圏内に存在することをシルフィールに知らせるのが、現在鳴っているアラームの役目だ。
シルフィールは、祈るように測定器の液晶を覗く。
「――そんな、うそでしょ」
シルフィールは極端に冷静さを欠いていた。思考は堂々巡りを続け、猛烈な緊張と共に、吐き気がこみ上げてくる。見間違いではないかと、何度も繰り返し文字盤を読み返すが、読み返す必要がない程に、表示は明確だった。
測定器の文字盤に表示された数字の羅列が、シルフィールを恐怖のどん底に突き落とす。
レベル一千万オーバー。
数値を読み間違えるはずがない、何せ測定器の数値は上限一杯、計測不能であることを示していたのだから。
当然、この一千万という数字は、シルフィールが所有する機材が計測不能というエラーを吐いているに過ぎない。自身の半径二キロ以内に、確実に存在するこの魔物のレベルは、二千万かもしれないし、三千万かもしれない。もしかしたら、レベル一億かもしれないのだ。
とにかく、現在の彼女が挑んだとしても、この魔物が小指一本振るっただけで、瞬殺される未来が確定するのである。そもそも、エルトシル帝国という国が、地図から消えるかもしれないのだ。
そしてこの魔物は、真っ直ぐこちらへと接近していることも計測器は知らせてくれた。
シルフィールは血の気の失せた青白い顔で、うめくように言う。
「――げて」
「え?」
「――逃げて、逃げてくださいッ! 強い魔物が来ます、全員逃げてくださいッ!」
シルフィールは剣を握りしめ、この最悪の状況を知る由もない民間人達に避難を呼びかけるしかなかった。カレンも含めた全員が、ポカンとした表情を自分に向けている。自分の必死さを一切理解していないことに怒りを感じながら、シルフィールは再度声を張り上げた。
「シルフィール、どれくらい強い魔物なんだ」
「……商会で最強だと公式に認定されているホワイトドラゴンを指先一つで瞬殺する。そんな強さを秘めた魔物がこちらに接近しています」
「……本当か?」
「……はい」
魔物の接近を知らせる為に、アラームの音量は上昇を続けている。あまりにもうるさく不快なので、アラームを切り、測定器を仕舞った。
「私はここで少しでも時間を稼ぎます。カレンはその間に皆さんを少しでも遠くへ」
「シルフィール、死ぬ気か?」
「…………」
無言。それを肯定と受け取ったカレンは、カトレーヌに目配せしてここから離れるよう伝える。戦友を置いて行くか否かで逡巡したカトレーヌだったが、自分には闘う力がないと判断し、五十メートル先の学園へと歩みを進めた。
「カレンも行ってください!」
「嫌だね」
「……カレン」
そう言ってカレンは、魔力回復効果のある魔法薬を飲み干し、杖と盾を手に持つ。親友に一人で強敵に立ち向かわせる訳にはいかない。彼女の心情がそれを許さなかった。そしてもうすでに、逃げるにしては遅すぎる。レベル一千万オーバーの魔物が姿を表した。
「はははっ、こいつはスゲー」
己の定規が小さ過ぎて測ることすらままならない魔力量。カレンは恐怖以前に乾いた笑いを漏らした。
――それは、天空より飛来する六枚羽の天使だった。
教典に記述され、教会の壁画で神々しい後光と共に描かれるべき崇高なる存在は、禍々しい黒色の魔力光を滴らせながら、シルフィールを睥睨する。
名称セラフィム、レベル三億、証明部位未定、報酬未定。
ガダルニアの賢者ネロ。今は亡き彼が構想したエンジェル計画。本来、その最終フェーズとして計画されていたセラフィムのレベルは三百万だったが。
研究中のセラフィムが原因不明の暴走によって、賢者ネロもろとも研究施設を吹き飛ばして十年、ガダルニアの科学者達は、この魔物を完全に制御下に置き、しかもレベルを雛型の百倍、レベル三億まで引き上げることに成功していた。
無論ワンオフではなく、このセラフィムもまた大量生産が可能であり、現在帝都には都合一千体のセラフィムが解き放たれている。セラフィムは上空を旋回し、一定レベル以上の人型生物を殺すようプログラムされていた。
つまり、このレベル三億に到達しているセラフィムは、シルフィールを殺す為に、地上へと舞い降りたのだ。もう逃げられない。セラフィムの飛行速度は、地球における第一宇宙速度を超えている。この魔物は、一度定めた目標をこの世から消滅させるまで戦い続ける無慈悲なキルマシーンだ。
「話に、ならない」
未踏破エリア、SSSランク冒険者、レッドドラゴン。自分が積み上げてきた研鑽の日々など、この存在の前では塵芥も同然であるのだと実感する。今後百年間、現在と同じ速度でレベルアップを続けたとしても、己はトートスの森に出現するゴブリンのように、目の前の魔物によって一蹴されるだろうと、シルフィールは確信していた。
無邪気な少年とも少女とも取れる中性的な容姿をしたセラフィムが、微笑を浮かべながら、白魚の如き人差し指をシルフィールへと突き出した。指先に、数千万単位の魔力が収束し、黒く輝く。
「……あ」
物質化された死が、目の前で輝いていた。シルフィールは確信する。自分は、ここで死ぬのだと。走馬灯を見る猶予もなく、黒い魔力の奔流が、セラフィムの指先から放たれた。
(さよなら、ウルクナル)
シルフィールは、どうしても死が恐くなり、最後の最後で目を閉じる。だが、極限まで引き伸ばされた時間の中で待ち続けても明確な死の感覚は訪れない。これこそが死なのかとも考えたが、どうにも違う。自分を包む暗闇は、死の闇ではなく、依然として瞼の中の闇だけであった。
意を決し、そっと目を開けると。
「――シルフィール、無事か?」
「……どうして」
十年前から一切変わらない、柔らかく響くアルトの声が降り注ぐ。霞んでいた視界が明瞭となった時、シルフィールは己が知る限りおいて最強の存在と再会した。もう絶対に会うことはないだろうと、数瞬前に覚悟した彼と再会したのだ。
「――ウルクナル」
「ごめん、遅くなった。エルトシル帝国の皇帝と揉めて動けなかったんだ。みんなも後からくるよ」
軽装鎧を身に纏ったウルクナルは、セラフィムの攻撃が放たれたにも関わらず平然と佇んでいた。怪我どころか、煤一つない白亜の頬を吊り上げ、朗らかに笑う。
「う、ウルクナル。前、前! レベル計測不能の敵が……!」
「レベル計測不能、それはすごいな。どれ……」
普段通りのウルクナルは、手のひらを空中で浮遊するセラフィムにかざす。彼が纏う鎧には様々な機材が内蔵されている。
今のように手のひらを目標に向けるだけで、生物のレベルや、ガダルニアが製造過程で魔結晶に刻み込んだ様々な情報を読み取ることが可能なのであった。
「レベル三億みたいだよ、あの魔物。名前はセラフィムって言うんだって」
魔結晶から発せられる波長を解析し、レベルと名称を伝えるウルクナル。その表情に、レベル三億に対する驚きはなかった。退屈そうに、セラフィムを眺めている。
「さ、三億……」
シルフィールが慄いているのは、レベル三億の敵に対してではない。レベル三億の敵を前にしても、普段と変わらず、殺気一つ発しないウルクナルに恐怖しているのだ。
シルフィールはあの目を知っている。あれは、高ランク冒険者が、ゴブリンと相対した時の眼差し。
余裕と落胆だ。レベル一桁のゴブリンに余裕を感じ、斃した際に得られる経験値と報酬の少なさに落胆する。
そういう類のものを、レベル三億のセラフィムを前にして維持し続けられるだけの力を、今のウルクナルは備えているのだろう。だとするなら、現在の彼のレベルは一体どれほどなのだろうか。
「えっと、君は、……誰?」
「え、わ、私ですか!?」
ウルクナルは、シルフィールの隣で杖を構えたままの女性を指差す。
「彼女はカレン。私の同級生、親友でルームメイト、――ウルクナル敵がッ!」
セラフィムが、再度魔力を指先に収束し、同様の攻撃を放つ。しかしウルクナルは、セラフィムに背を向けたまま振り向きもしない。
「平気、それにしてもシルフィール。こっちの学校でも友達ができたのか、それはよかった。――えっと、俺はウルクナルって言います。トートス王国を拠点とする冒険者パーティ、エルフリードのリーダーやってます。よろしく」
ウルクナルがカレンと握手をしようとした時、セラフィムから光線が発射され、三人を飲み込んだ。だが、ウルクナル達にダメージは皆無。直撃する寸前で、敵の光線よりも暗い黒色の膜が展開され三人を包み込んだのだ。
上級魔法使いのカレンですら、この膜の正体が魔力だと気付くまでに相当な時間が必要だった。何せ、こんなにも暗い、闇その物のような物体が、魔力を消費した際に発生する魔力光だとは想像もできなかったのである。
「は、はい」
セラフィムに対する恐怖など霧散していた。それよりも、この白銀の人型の方が何倍も恐ろしい。ウルクナルと手甲越しに握手を交わした後、自分の手が無事かどうか真っ先に確かめるカレンだった。
先ほどよりも数倍太い光線が、セラフィムから発射される。
「二人ともちょっと待ってね、コイツを黙らせるから」
ウルクナルが飛んできた蚊を払うような動作をすると、光線は直角に曲がり、上空へと打ち上げられた。光線は、宇宙空間に到達したことだろう。
「まだ同種が沢山いるみたいだし、捕縛しなくていいか」
瞬間、ウルクナルの姿が霞み、地上に居たはずの彼はセラフィムの半歩手前に出現した。まるでテレポートしたかのような移動である。ウルクナルは、肉眼では捕えられない移動速度を獲得しているようだ。
「――やあ」
なんとも気の抜けた掛け声と同時に魔力光が迸る。音を遥か後方に置き去りにしたストレートの拳、その一撃によって、レベル三億を誇るはずのセラフィムは肉片一つ残らずに、世界から霧散した。
「んー。次が来るか」
上空を仰ぎながら呟いたウルクナルは、シルフィールとカレンのもとに戻る。
「二人はマニエールの方に行ってくれ。学園は俺の仲間で守るから心配しないでね。それと、これまで以上に帝都が危険になるだろうから、生存者の救出は暫く中断。それじゃ、行ってくる」
「あ、あの、ウルクナル」
早口で必要事項を伝えたウルクナル。彼が身を翻したので、シルフィールは慌てて呼び止めた。言わなければならない言葉がまだ残っているのだ。
「ん?」
「……帝都を救ってください」
「おう、任せとけ」
はにかんだウルクナルはトンと地面を蹴ると、体の重さを感じさせない動作で空中に浮き上がった。シルフィールを見つめて大きく頷くと、一瞬にして大空へと舞い上がる。
遮る物のない遥かな上空では、幾筋もの光線が飛び交い、爆発も絶えることなく連鎖し、神話から抜け出てきたかのような戦いが繰り広げられている。
空の青を魔力光の漆黒が塗り潰さんばかりの、人智の及ばぬ戦場を数秒眺めたシルフィールは、この戦いにおける自分の役割が終わったことを理解した。
時はわずかに遡る。
王都トートス東部国境付近、地下。
「何度言わせればわかるッ! ガダルニアが我々を滅ぼさんと動いたのだッ! レベル百の魔物だけでなく、レベル億単位という魔物の存在も確認されている、しかも一匹だけではなく、千単位でだッ! エルトシル帝国は、トートス王国に、エルフリードの派遣要請を速やかに出してほしいッ!」
王都トートスの外れ、領土の東部外縁に設けられた地下施設では、トートス王国現国王であるアレクトが、こめかみに青筋を浮かべながら、エルトシル帝国現皇帝トニールとの、立体映像を用いた緊急会談を行っていた。
「よ、余は……」
「……エルトシル帝国は滅亡の危機に瀕している。これは明らかだ! 早急にエルフリードを派遣し、対処しなければ、何十万という人々が死ぬことになる。トニール皇帝、エルフリードに要請を」
「よ、余は……」
トニール皇帝は、アレクトの怒声に怯え、この十年で蓄えた大量の脂肪を震わせながら、壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。彼の暗愚さは十年前よりも一段と拍車が掛かり、もはや会話が成立しない。
「……ッ」
この時アレクト国王は、自分の中で何か大切なものが引き裂かれる音を聞く。死地と化した帝都ペンドラゴンに、最愛のシルフィールがいるという現実に、気が狂いそうになりながらも、懸命に皇帝トニールの説得を試みたが、全ては無駄であったらしい。この暗愚相手に、国と国との厳正な会談が成立するはずがないのだ。
「国家滅亡の危機に瀕してなお、貴様は、何一つ自分の意志で決められないというのかッ! 貴様に皇帝の資格はないッ! 皇帝は心神を喪失した。トートス王国はこれより、エルトシル帝国の国民を救うべく、独断で行動する。以上だッ!」
「よ、余――」
息を荒げながら、アレクトは通信システムの文字盤を殴り、電源を落とした。
背後に控えていたトートス王国の切り札に視線を送る。
「という訳だ。遅くなってすまない。早速向かってくれ、――娘を頼む」
「お任せください」
優雅に一礼したマシューは、足早に退出し、扉の前で苛立ちながら待っているであろう仲間達に報告する。
「国王が全責任を負ってくれるそうです、早急にエルトシルへ向かいますよ!」
「行ってくる」
マシューの報告が終わる前に、ウルクナルは天井を突き破って、地中を掘削し、力技で地中から上空へと飛び上がった。エレベーターを待つ時間も惜しかったらしい。
本来届くはずのない日光が、ウルクナルのせいで停電した地下施設を照らす。
「そうこなくっちゃなッ!」
溜まっていた鬱憤を吐き出すように一吠えしたバルクは、小型端末を口元に当て、待機中のエルフリード部隊全隊に命令を伝達する。
瞬間、エルトシル帝国方面の王国国境より、幾千もの輝かしい魔力光の帯を従え、エルフリード隊は出撃した。バルクもウルクナルの後を追って地下通信施設から外に出ると、魔力エンジンを瞬時に構築。音もなく舞い上がり、教え子達の後を追う。
サラとマシューも、ウルクナルが強引に開けた縦穴から飛び立ったが、直接エルトシルへ向かうのではなく一路北へ向かった。
「マシュー、アレの発進準備は整ってるって、少し前に整備班から連絡があった」
「そうですか。初飛行が初戦闘になってしまったのが悔やまれますが。仕方ありませんね。総力戦ですし」
そこに、この十年で急成長したとある組織の、拠地の一つが存在する。
――そこは光一つない広大な地下空間であったが、巨大な一つの塊が鎮座し、空間のほとんどを占領していた。
「全魔力炉起動」
無数の計器類やモニターがぼんやりと輝く薄暗い空間の中央で、席に座したマシューが各オペレーターに指示を下す。
「了解、全魔力炉起動準備」
どこか冷淡な女性エルフリードが最初に呼応し、よどみなく機器を操作した。
三基の超大型魔力炉が低い唸り声を響かせながら目を覚ます。全長十メートルにも及ぶその楕円形の魔力炉は、一基だけでも、王都の一般家庭のおよそ四十パーセントに十分な魔力を供給する能力を誇る。
「一号炉、二号炉、三号炉、オールグリーン。――全魔力炉、起動しました」
「発進シーケンス開始」
「了解、発進シーケンス開始します。――ドック解放」
地面に亀裂が生じたかと思うと、定規とカッターで切断したような直線の切れ目が二百メートルに渡って走り、一分と経たずして全長二百メートル全幅五十メートルの大穴がトートス王国国境側の草原に開いた。闇に包まれていたドックに日光が流れ込み、その全貌を照らし出す。
「最終確認」
「計器安定。武装不備なし。魔力炉正常。重力制御機関、正常作動。魔力充填既定値をクリア。オールグリーン」
「――エルフィニウム、浮上」
「了解。底部スラスター始動。飛行戦艦エルフィニウム、浮上します」
全長百八十メートル、全幅二十四メートル。
大型の三連装砲を甲板上に二基配置した戦艦。その金属の塊が数多くの推進エンジンに支えられ、地下ドックからゆっくりと浮上し、そして静止する。安定した見事な空中静止に、艦橋からも歓声が上がった。
海に浮かべれば、排水量一万五千トンは下らないその巨体が浮き上がっているのだ。いかに魔法の発達したこの世界といえども、目を疑い、自然と口が開く光景だろう。
一つの常識を打ち壊したこの船の名は、飛行戦艦エルフィニウム。
先週、魔力炉の全力運転試験を終えたばかりの新造戦艦である。秘密裏に地下ドックで建造されたこの戦艦は、地上ではおいそれと試せない膨大な魔力を用いた高威力兵器の集合体であり、ガダルニアに対抗する為の、切り札と呼ぶべき艦である。
「サラ、戦闘時は頼みます」
マシューは座席に備え付けられた電子機器を使い、エルフィニウム魔力機関部に詰めているサラへと語り掛けた。
「任せといて」
戦艦に内蔵された三基の魔力炉は既存のどんなものよりも高性能だが、戦艦の魔力兵器を撃ちまくるとなれば、魔力が不足する。それを補うのが、サラの魔力だ。
マシューは、最後の最後で他者の魔力供給に頼らざるを得ないシステムに満足していなかったが、現状、サラの肉体以上の魔力供給能力を持つ魔力炉の製造は、技術的に不可能であり、仮に造れたとしても、巨大過ぎてこの戦艦には詰め込めないだろう。
「エルフィニウム、発進」
マシューとサラが、科学と魔法の英知を結集させて建造した飛行戦艦エルフィニウムは、エルトシル帝国帝都ペンドラゴンへ進路を定め、天空という大海原を突き進む。
ウルクナル、レベル五十億。
「っははは、すげー、レベルがガンガン上がってく」
上機嫌に笑いながら、幾百と群がってくるセラフィムを拳の一振りによってダース単位で打滅ぼす。魔結晶を吸収せずとも、彼が装備している鎧型の魔道具が非常に効率よく経験値を吸収し、猛烈な勢いでレベルを押し上げていく。
眼前の一群を一掃しただけで、三十億のレベルアップを果たした。
ウルクナル、レベル八十億。
ウルクナルが装備している鎧型魔道具は、装備者のレベルアップを手助けするという効果がある。一見 地味そうな効果だが、その効率は驚愕の一言に尽きる。
――撃破した魔物のレベル、その十パーセントが装着者のレベルに、自動的に加算されるのだ。
魔結晶を傷つけないように取り出し、膨大な魔力を注いで気化させ、吸収しても、獲得できるレベルは最大でも五パーセント。大概は一パーセント足らずだ。それを、一挙に十パーセントにまで引き上げ、しかも液化や気化といった制約も無しというのは、掛け値なしに革命的な性能の魔道具と言えるだろう。
開発者のマシューとサラは、このレベルアップをハイパーレベリング・タイプツーと呼称している。
当然、鎧の量産も済んでおり、エルフリード化した全エルフに支給済みであった。
「――っと」
どれだけ倒そうとも害虫のように出現するセラフィム。百体葬る間に、二百体が新たに集結し、計四百体のセラフィムが、一斉にウルクナルへ光線を発射した。これには、流石のウルクナルも全力で防御しなければならなかった。全天を覆い尽くす魔力の奔流を前に、貯蔵魔力の半分を割き、魔力の障壁を築きあげる。
限りなく黒いそれは、光を一切反射しない。光を一切反射しないということは、視神経が色を感じ取れないということである。その黒はまるで、空間そのものに穴が空いたかのように錯覚させられた。
貯蔵魔力の半数、四千億の魔力が投じられて完成した魔力障壁の外見はまさにブラックホール。攻撃を吸い込みこそしなかったが、四百本ものレーザーをことごとく挫いた。
「こっちの番」
残り四千億の魔力を右腕に収束。前方の二百あまりの敵群に向けて、拳を振るう。瞬間、空間が抉り取られた。魔力光が消え去った後に空間は元に戻ったが、セラフィムはブラックホールに飲み込まれてしまったかのように消滅し、ウルクナルのレベルに還元される。
ウルクナル、レベル百五十億。
これでウルクナルのレベルは出撃当初の三倍にまで上昇したが、まだまだセラフィムという名の資源は尽きるところを知らない。
東の空から絶え間なく飛来し、一千体にまで膨れ上がったセラフィムを前にして、ウルクナルは獰猛な笑みを浮かべる。
「参ったな、これは食べ切れないぞ」
彼の食事は始まったばかりだ。




