第24話
『始まってはいるが、──別に不思議なことじゃない』
息を吐くように、博士は言った。
僕はその言葉を鼓膜に染み込ませるように時間をとって、もう一度、口を開く。
「まだ、3年後じゃないじゃないですか」
『3年後にこだわるねぇ』
「だって、人が消えてるんです。僕はまだ何もしてないのにっ」
ニシダ博士は、椅子に腰を掛け直した。
白衣が揺れる。
昼間の白衣は銀色に染まって、月光でつくられたホログラムみたいだ。
薄暗い理科室で、淡く輪郭を模る博士が僕に告げる。
『君が、始めたんだよ』
その言葉を、僕はわかっていた。そんな気がする。
僕は黙って机に目を落とした。
静寂が痛い。
肌に刺さって、服がこすれるたびにひりひりする。
僕の存在も、ざらついた空気で僕の存在を削って、粒子に変えていくんだと思う。
『君がわたしを観測した。そして君は、観測をやめなかった』
博士は透けた手でゆっくりと顎を撫でている。
朗らかな表情の博士を僕は睨んだ。
「……でも! ……それは、たまたま視えるからで……!」
『でも、視える場所に行ったのは、君の行動だろ?』
耳鳴りがする。
耳を塞いでしまいたい。
僕の安易な行動が、この結果になったというのなら、僕はどれだけ愚かなことをしたんだ……
脳が沸騰している。
眉間が熱い。
僕は目をもんだ。涙が滲む。
だが、まぶたから落ちるだけの水分は溢れない。
ただラジオのように絶望が脳内で流れている。
全て、壊したい。
全て、消えればいいのに……!
僕は頭を振った。
現実逃避している場合じゃない。
『……ソラ、わたしは攻めているわけではないよ。ただ、事実を伝えただけだ』
ニシダ博士の声の本音は、“しかたがない”というように聞こえる。
いずれ起こることだから。結果は決まっているのだから。
そう言われた気がした。
「……でも、」
僕は、深呼吸をする。
まだ、決まっていないことがある。
何かはわからないけれど、あるはずだ。
「なんで、今、未来が起こるんですか」
これは質問じゃない。
怒りだ。
どうにかしたい気持ちからくる怒りだ。
「未来は変えられるものでしょ」
ニシダ博士は薄く笑った。
それは少なからず嘲笑している。
だからか、諭すようにゆっくりと語りだしたその仕草は、映画俳優のように優雅で説得力があった。
『君は今、どこかで大きく変えられるタイミングがあるんじゃないか、と思っているのかもしれない。
だが、それはない。
なぜなら、未来が起こってから過去に影響するんじゃない。
“確定した順番”が、君たちの感じる順番と違うだけなんだよ。
量子の世界では、“見た瞬間に状態が決まる”。
時間も同じ。“観測された順”に世界が確定する。それだけの話だ。
ソラ、前にも話したけれど、君はまだ、“時間は流れる”と思っているね。
だが時間は、川みたいに進んでいるわけじゃない。そして、一本の線として存在しているわけでもない。未来も過去も、全部「今」として重なっているんだよ。
原因と結果の前後なんて、そもそも存在しない。
未来の出来事が先に“確定”すれば、それは君のいう“過去”にも影を落とす。
君がどこを“観測”したかで、起こる順番が変わるだけだ』
博士は顎をつまみ、『もう少し、量子論を勉強した方がいいね。君なら、より理解ができるはずだ』と、最後につけたした。
頭がぐらりと揺れた。
理解したくない。
重い。僕には重すぎる。
息苦しい。
浅い呼吸を途切れさせるように、深く深く呼吸をするが、深海にいるようだ。
口をぱくぱく開くのに、空気が入ってこない。
『君の気持ちがわからなくて、申し訳ない』
ニシダ博士は、天井を仰いだ。
もし彼の手元にコーヒーカップがあれば、今、彼はひと口すすっているだろう。
そんなひと息だ。
……僕は、少し期待していたんだ。
ニシダ博士なら、変更できる過去を知っているのではと思っていたのだ。
よく映画で、「今、こうしておけば、未来は安泰だ」という行動が、出来事や、発言が、あるんじゃないか、と。
だけど、それは映画であり、フィクションだ。
僕の物語に、そんな第三幕の始まりはない。
僕はただ崩壊する世界を眺めるしかできないんだ……
あずけられた内海さんのバッグを抱え直し、僕は立ち上がった。
座っていたら、博士の言葉に押しつぶされそうだ。
言葉の底で、圧死は嫌だ。
『君が始めた物語だ。存分に楽しむといい』
他人事にも聞こえるフレーズに、ドアの前まで歩いた僕は振り返った。
「──なら、僕が終わらせる」
ニシダ博士は、嬉しそうに微笑んだ。
立ち上がると、仰々しく舞台俳優のように腕を振りあげ、お辞儀をする。
『どんな結末も、受け入れるよ、わたしの神』
理科室のドアは案外軽く、大きな音を立てて閉まる。
僕はその音に押されるように、階段へと向かった。
向かいながら思う。
僕はどう、終わらせる気だ? と。




