第六十八話 踏み越えてはいけない領域
階段を降りきるとまたドア。鍵はかかっていないようだ。
『人の気配はまだ感じられません。行きますか?』
(ドアを閉めておきたいので、いきましょう)
ドアを開ける。するとそこには、外から見たときと同じあの男のいた室内が見えた。
(まだ来る気配がないから、電話のコードだけ抜いておきますか)
『慎重というかなんというか、一八さんは司令官の素質があるかもしれませんね』
(司令官はお姉ちゃんですってば)
『確かに千鶴さんのほうが上を行っていますね』
(でしょ?)
そんな雑談を交わしながらも、この階にある電話関係のコードはパソコンのLANケーブルに至るまで全て抜いておいた。
(ここにフロアの照明スイッチが集中してるんですね。僕が合図したらこれ、全部落としてもらえますか? 面倒でしょうけどお願いします)
『大丈夫ですよ。ブレーカーを落としてしまったら、セキュリティに触れる可能性がありますものね』
(なんでそんなことを知ってるんですか?)
『千年生きていたら、こんなものですよ』
雷が鳴ったかと思ったら、窓ガラスに雨粒がぶつかってくる。シチュエーション的には最高の状態だろう。
『誰かがきます。人の気配ががひとつです』
(うん。それじゃあの姿になってください。『隠形の術』は継続します)
『あの人ならきっと、合点承知の助、と言うんでしょうね』
(緊張感がありませんね)
『この程度で緊張していたら、ヒーローは務まりませんよ』
かちゃりと音を立てて向かいのドアが開いた。茶褐色の趣味のよろしくないスーツに身を包んだ、この部屋の主である松任谷響がやってきた。
「なんだよ天気悪いな。あぁ、降ってきたよ。今夜は飲みだっていうのに、モチベ下がるじゃないか。どうすんだよこれ……」
雷が近くの避雷針に落ちたのだろうか? かなり大きな音が鳴りと、稲光が降り注いだ。同時に大雨になったのか、窓ガラスをたたき付けるようなもの凄い雨音。細かく続く落雷の音が続いている。
(今です)
『はい』
吽形が全てのスイッチを落とした。部屋の椅子からスイッチまで三十メートル以上あるから、音までは聞こえないようだ。同時に天井にある全ての照明は消え、夜に近い薄暗さになってしまう。
「ちっ、停電かよ……」
一八は用意しておいた布の手袋をつける。面倒くさそうに立ち上がった松任谷の傍に立つと、手のひらの手首に近い掌底部分を使って、顎の先端を壊れないように手加減しつつ、少しだけ勢いを付けて前に押しこんだ。すると、せっかく立ち上がった椅子の上に、崩れるように座り込んでしまった。
(あ、本当に倒れるんだ……)
『確か、格闘技の試合で見ましたね』
(よく知ってますね)
『千年生きていますから』
後ろ手にして、LANケーブルで手足を縛る。近場に置いてあったタオルで猿ぐつわにする。一八は松任谷を肩にひょいと担いだ。
(前より体力あるような感じはあったんですが、これくらいなら軽々なんですねー)
屋上へ繋がる階段へ出ると、ドアの鍵を閉めた。階段室は薄暗くて都合がいい。
屋上へ出るドアの前に松任谷を転がす。
(これで準備おっけっと。吽形さん)
『なんでしょう?』
(僕たちの周りだけ、音を遮断するなんて、できませんよね?)
『出来ますよ。「遮断の術」というのがありますので』
(なんて万能なんですか?)
『千年生きていますからね』
『遮断の術』を使ってもらった。すると雨の音が聞こえなくなった。
「……ぐぅう」
(あ、気がつきましたね)
『そうみたいですね』
(それでは、声を変換することは)
『できますよ』
(やっぱり。この松任谷の声にできますか?)
『……できたと思います』
(それじゃ、一発驚いてもらいましょうか)
『もらいましょうか』
一八も吽形もなぜかノリノリだった。




