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ゴルベドはインクの瓶を拾い上げてから、再び机へと目を走らせる。
しかし自分が散らかしたときに折れた羽ペンを見つけると、肩を落として壁へと向き直った。
瓶の蓋を開け、嫌そうにそこへ指を入れる。
「まさかこの壁に、インクを塗ることになろうとは……」
よほど高い壁紙だったのだろうか。
ゴルベドはそう呟いてから、壁に指で地図を描いていく。
「だ、だいたいここカスタネア村は……こういう形になっている。領民は全体で2000人ほどだ。この中央部東寄り辺りに住居が密集している。とはいえここに住んでいるのは、農業を中心に生活している貧しい奴らだ。私兵の家族はほとんどおらん」
地図の上に方位を示すマークを描き、ゴルベドは左の方を指で示す。
「……と、いうと?」
「この貧民層を囮にしても、私兵から反感をくらうことはまずない。数は多いから、何かに使えれば……」
……こういうことを聞いても、あまり苛立たなくなった。
ミーデニガンドの競売をみたときはあの邪悪さに吐き気さえ催したものだが。
しかしどっちにしろ、いちいちそんなことに憤慨してる暇はない。これでいいのかもしれない。
「感知したところによれば、東側から攻めてくる兵が濃い。半数近くが集中しているようだ。領民をたきつけ、この東に逃がすことはできるか?」
「う、うむ。東側は国外に逃げられる方向であるし、地形的にも逃げやすい。こっち側から俺が逃げる可能性が高いと踏んだんだろうな。
向こうが皆殺しにする気だというのならば、むしろいい時間稼ぎになる。そうすれば、こっちは別の方角からの兵へ意識を集中させられる。300人に全方位から一気に攻められれば、そこの巨人……召喚魔物の手を借りたとしても、一気に滅ぼされてしまう。だが150人ならば、どうにかならなくもないかもしれん……。
他方角からの兵を崩すことができれば、東側からの兵が来る前に逃げられる。その場合は、西か北がいいだろう」
ゴルベドは希望が見えてきて安堵したのか、声の調子が落ち着いてきていた。
東側の兵は確かに多いが、黄坂達とは反対方向だ。
盗み聞きしたやり取りから察するに、ただの領民ならば、黄坂達がいなければ見逃してもらえる可能性が高い。
これで領民が殺される危険性は減ったはずだ。
別に顔も見たこともない連中が殺されようが、どうでもよかった。
ただ、どうでもいいと考えられてしまう自分が少し怖かった。
なるべく領民の死ぬリスクが低い手段を選んだのは、自身の変化から来る恐怖から逃れたかったからなのかもしれない。
それに領民達の数は、アイルレッダ王都の兵よりも多い。
かなり兵の進む邪魔になることには違いはないだろう。
進行を遅らせられるはずだ。
アイルレッダ王都の兵は領民達から何かを聞き出そうとするかもしれないし、逃がす前に領民達にガセネタを掴ませておくのもいいかもしれない。
例えばゴルベドが紅上院を連れてとっくに逃げたと言っておけば、それだけでかなり向こうの混乱やタイムロスを狙える。
「それで、グリントロル級の魔物は何体必要だ?」
俺はグリントロルを指で示しながら、ゴルベドに尋ねる。
「お、多い方がいい。上手く分散できたとして、それでも王都の兵150人を相手に戦うなど……」
「最低必要数だけ言え。俺もそれなりにリスクがある」
「……六、いや……五体あれば、あるいは……」
ゴルベドが恐る恐るとグリントロルへ目をやる。
視線が合うと、ゴルベドは「ひぃっ!」と声を上げて一歩下がった。
「こ、こいつは本当に言うことを聞くのか?」
「五体いればどうにかなるかもしれないのならば、四体いれば足止めにはなるか」
「ああ、足止めだとぅ!? きき、貴様ァ! この俺を足止めに使うつもりか!」
「安心しろ。俺の言う通りに動けば、危なくなった時はお前だけでも助けてやる。それに……」
俺は言いながら、ゴルベドの後ろへと目でやる。
すうっと黒い影が浮かび上がる。
影は軽快な声で笑いながら、ゴルベドの首に手を伸ばす。
「キャハハハハッ」
「ひっ!?」
前に『闇夜の使い魔』によって生み出した、ゴルベドの見張り役だ。
ゴルベドが敵対行動を取れば、首を撥ねるように命じてある。
「言うこと聞けないなら、今すぐ殺すぞ。ここで俺に見つかってて良かったな。逃げてたら、アイルレッダ王都の兵に捕まるより先に、そいつが首を斬っていたぞ」
「ぐ、ぐぐ、うぐぅ……。本当に、言う通りにすれば俺だけは助けてくれるだろうな? なぁっ!?」
「ああ。お前には、ここを逃げてからもやってほしいことがあるからな」
「こ、ここから逃げ切れてもまだ俺を妙なことに巻き込むつもりか!? 元はと言えば、貴様が俺の捕まえてきた女に余計なことさえしなければなぁっ!!」
ゴルベドは頭を掻きながら涙を零し、嗚咽を上げる。
元を辿れば誘拐を繰り返していたことが発端なのだが、そこまで遡る気はないらしい。
「でも、お前としても利用価値があると言われた方が安心できるだろう?」
「何を、この俺にィ、何をさせるつもりだァッ!」
「安心しろ。お前にとっても悪い話ではないはずだ。と、今そんなことはどうでもいい。後回しだ」
発狂するゴルベドを軽く流し、俺は壁に描かれた地図の左側を手で触れる。
「……西から来る奴数名を、この館の地下にまで誘導できると思うか?」
できることならば、俺の顔はアイルレッダ王都の兵に見られたくはない。
万が一俺がクラスメイトを殺して回っていることが知れたら動きづらくなるし、かといって俺を見た兵士を皆殺しにしていてはキリがないだろう。
なるべく他のアイルレッダ王都の兵とは顔を合わせず、黄坂達だけをこの館へと誘導し、そこで殺してやりたい。
「な、なぜそんなことを……」
「お前に話す気はない。できるか? できないか?」
「……貴様が魔物を扱えるのならば可能性はあるだろうが、しかしかなり運に頼ることになってしまうぞ」
「よし。じゃあお前は上手く私兵に指示を出し、なるべく誘導しろ。アイルレッダ王都の兵に紛れ、明らかに戦場慣れしていない男三人、女一人の四人組がいるはずだ。服装から雰囲気まで違うから、見ればわかる」
「そ、それも俺にやれと言うのか!?」
「俺からも魔物を使ってなるべく誘導する。上手くやってくれよ」
俺は自分の首許を意味ありげに叩きながら、ゴルベドにそう言った。
ゴルベドは自身につけられている使い魔の存在を意識したらしく、ぶるりと身を震わせる。
「ほほ、本当に俺は助けてくれるんだろうな? なぁっ!?」
「ああ、上手くやってくれればな。時間があまりない。お前の私兵と魔物の配置と、領民を逃がす進路を具体的に決めていこう」
俺はゴルベドが壁に描いた地図へと近づき、その西側に軽く触れた。
乾ききっていないインクが少し指先に付着した。
この西側から、黄坂達が来る。
黄坂、青野、高橋、如月……。
クラスメイト全体が33人で、そこに先生を足して俺とメアリーを引けば、32人。
そこからもう15人殺したから、まだ生きている復讐対象は17人だ。
とはいえ死んでいないにせよ紅上院は再起不能だろうから、実質的に残りは16人。
ここから今来ている4人を殺せば、残りはもう12人になる。最初の三分の一程度だ。
ようやく、ようやくゴールが見てきた。




