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地下階段を降りると、鉄の扉があった。
鉄の扉には、赤で大きく魔法陣が描かれている。
嫌なものを感じ、伸ばし掛けた手を止める。
『妾の下僕よ、そう怖がらずともよい。別に触ったからどうというものではない。鍵と……まぁ、防音のようなものであるな』
トゥルムの言葉を聞き、俺は魔導書を捲る。
「その者が通るとき、人間だけでなく小動物や草木はおろか、秩序なき混沌さえもが頭を地に着け、ただ震えてその者が過ぎて行くのを待っていた。禁魔術、『万物の王』」
赤の魔法陣が薄れて行き、五秒と経たない間に綺麗になくなった。
魔法陣が消えると同時に、悲鳴やら嗚咽やらが、扉の隙間からこちらに漏れてきた。
中には気が触れたようにただただ絶叫し続けている者もいるようだ。
何をしているのかはわからないが、ロクな場所ではないと、そのことだけはすぐにわかった。
エレが自分の肩を抱き、身体を震えさせる。
奴隷時代の嫌な思い出でも蘇ったのかもしれない。
俺も奴隷オークションのことが頭を過ったが、不思議と吐き気や恐怖は感じなかった。
ただ嫌悪と胸糞悪さが胸中に渦巻き、それからレッドタワーでの自分のことを思い出して自嘲気な笑みが漏れた。
『しかし、なかなか高度な魔法陣であった。館の自室のようなものであろうに、よくもここまで強固に閉ざしたものであるな。どうやら中におるものはかなり偏屈で、それに魔法に精通しているようであるな』
トゥルムの忠告を聞きながら、俺は扉に手を掛ける。
「あ、あの、御主人様! 先に、先にエレが入ります! 危険かもしれませんし……それもエレも何か、役に……」
すっと俺の前に滑り込み、左右色の違う双眸で俺を見る。
俺は小さく首を振り、無言のまま目でエレを退かせる。
少し落ち込んだように下を向き、されどそれ以上は何も言わず、エレは大人しく引き下がった。
『……む、カタリ、少し冷たくなったか?』
からかうようなトゥルムの声。
別に今のはそういうものではないと、自分では思っているが。
普段ならともかく、優が先にいるかもしれない扉の手前で、エレの感情の機微に気を遣うつもりはない。そのことは冷酷とはまた違うだろう。
しかし冷たくなったと、そのこと自体は間違いではないはずだ。
それこそ、魔導書を使うに当たって最初に聞かされた注意事項なのだから。
だから、お蔭さまでね、と心の声で返す。
嫌味ではなく、本心だった。冷酷であれるのなら、そっちの方がいい。
先にいるのが優ならば、尚の更だ。
扉を開ける。
中は、地獄だった。
牢屋があり、十字架があり、何に使うかもわからない器具があり、人の一部がゴミのように床に落ちていた。
耳だったり、腕だったり、眼球だったり、鼻だったり、潰れているせいかよくわからない肉塊だったり。
地下室にいる人間へと目を走らせる。
磔にされたまま、布一枚纏わぬ姿でいる若い女が何人もいた。
不思議なことに彼女達は全員、身体がどこか欠損していた。
手だったり足だったり、片目だったり両目だったり、両手両足がなくひどく歪でコンパクトな姿だったり。
その中に、優の顔はない。
ぶくぶくに肥えた醜い男が、牢に向かって何か喋っている。
醜い男の横には、ローブを纏った痩せた男がいる。
痩せている男はこちらに気付いたようで、目だけでじろりと俺を睨んでくる。
牢の中には、まだ服を着た女がいた。二人いる。
片方はメアリーで、もう一人は知らない顔だった。
優の顔は見当たらない。
台の上に裸で固定され、顔を麻袋で覆われている女がいた。
口から洩れる呻き声はどこか聞き覚えがあり、情けない声色だったのに記憶からは攻撃的な口調が連想できた。
『ねぇアナタ、どうして学校に来ているのかしらぁ?』『気持ち悪いわね、早く帰りなさいよ。ほら、早く。なに? なに突っ立ってるのぉ? 私が言ったこと聞こえなかったのかしらぁ?』
『育ちが悪いから、そんなふうになったんでしょうねぇ。可哀相、こんなのと一緒のクラスなった私が可哀相』
『なんで黙ってるのかしら? 私の言ったこと、聞こえてる? 聞こえてないわけないわよね。ねぇ、なんで黙ってるのかしら?』
『あら、愛媛さんも出席しなかったのかしら。クラスメイトのだぁいじな家族のお葬式なんだからぁ、それくらいは行ってあげるのが常識でしょう? 愛媛さんは薄情ねぇ。え、私? 私は正当な理由があるのよぉ。私は行きたかったけど、ほらぁ、遺族の顔を見たら笑ってしまいそうだったから。孫夫婦が焼死して泣いてるお爺さんの顔とかぁ、そこで聞こえてない振りしてる気持ち悪ぅい誰かさんの泣き顔とか見たらぁ、絶対笑っちゃうと思わないかしら? 誰か、写真でも撮ってくれれば良かったのに』
ああ、コイツは紅上院妃だ。
女子の中では、一番か二番目辺りに積極的に嫌がらせを仕掛けてくる方だった。
ストレスの捌け口を探していたというのと、俺に害を加えることで赤木に近づこうとしていたというのが大きな要因だろう。
こんなこと平然と言えちゃう私かっこいいみたいな、そういう面も紅上院からは感じた。
服をひん剥かれて拘束され麻袋を被せられ、哀れなものだとは思うが、当然それで俺の憎悪が薄まることはない。
コイツが生きていてよかったと、そのことに安堵した。
太った男が、俺を振り返る。
「な、なんだ貴様は! どうして、どうやってここに入ったぁ! こ、ここは俺の、俺の……」
唇を噛みながら、疎ましそうに俺を睨む。
「おい、クロム! 貴様が、しっかり扉を閉めないからだぞ! 腕が立つと聞いて雇ったのに、役立たずがぁっ!」
太った男はそう怒鳴り、ローブの男を殴りつける。
遅いパンチだったが、ローブの男は避ける素振りも見せず、無抵抗に殴られる。
どうやら太った男がゴルベドで間違いなさそうだ。
クロム、という名はエルベドも口にしていた。ウーベルト家お抱えの魔術師なのだろう。
魔法で地下をロックしていたのも、クロムで間違いなさそうだ。
「カ、カタリ……? カタリッ!」
牢の中でぐったりとしていたメアリーが、弱々しく立ち上がり鉄格子へと近づいてくる。
弱っているようだが、暴力を受けたような痕は見当たらない。
魔法か薬かで、抵抗する力を削がれていたのかもしれない。
俺はメアリーから、ゴルベドへと目線を移す。
「俺は、訊きたいことと相談があってここに来ただけだ。言う通りに動いてくれるのなら、別にお前に何かはしない」
俺の傍らに立っているエレが、少し驚いたように、小さな口を開ける。
「な、なんだ! 貴様は、俺を脅しているつもりか! ふざけるな! クロムッ! さっさとこいつを片付けろ! 貴様のせいだおぞぉっ!」
ゴルベドの命を受け、クロムが動く。
ガリガリに痩せた不健康な青白い腕をローブから伸ばし、こちらに向ける。
指には、五つの色違いの指輪が嵌められていた。
国木田が着けていたものと同種の魔法具だろう。
「古より生きる五つの竜よ! 主の命じるがまま、脅威を討ち滅ぼせ! 『五色竜』」
クロムが手を広げる。
赤、青、黄、緑、茶の光が指輪から伸び、そのひとつひとつが竜を象って俺に襲いかかってきた。
竜が飛ぶ様を見て安堵したようで、ゴルベドが膨れ上がった頬を持ち上げて醜いカオを破顔させる。
「その者が通るとき、人間だけでなく小動物や草木はおろか、秩序なき混沌さえもが頭を地に着け、ただ震えてその者が過ぎて行くのを待っていた。禁魔術、『万物の王』」
竜を象った光が床に沈んでいき、その姿を消した。
クロムがローブの奥の骸骨のような顔を顰めさせる。
表情の変化こそ小さかったが、彼の細い指の小刻みな震えが、当人の動揺を色濃く表していた。
「あ、あり得ない。そんなことなど……」
「貫いた針が犠牲者の血を喰らい、それを糧としてより鋭さを増す。茨の元の色は誰も知らない。禁魔術、『魔界庭園の赤茨』」
赤き茨が床から伸びてクロムの上半身を砕き、呆気なく四散させる。
手が、頭が、鮮血をぶちまけながら床の上を転がった。
目的を果たした赤茨へ手を向け、素早く消し去る。
「あ、ああ、あぁっ! ふざ、ふざけるな! 俺がいくら金を払って貴様を雇ったか、引き抜くのにいくらつぎ込んだか、わかっているのか? ふざけるなぁッ!! 返っ、金を返せぇ! そして俺を守れぇ! 俺は、ゴルベド様だぞぉっ!」
ゴルベドは叫びながらクロムの死体に近づき、よろよろと膝を床に付ける。
床に手をつけ、太い首を伸ばしてクロムの死体に顔を近づける。
「あ、アイツをどうにかしろ! アイツを倒せ! ぐちゃぐちゃにしてやれ! はや、早く……早くしろ、早く……」
俺はガタガタと震えるゴルベドの首許を掴み、自分の方を向かせる。
「聞いてるのか? 俺は話がしたいだけだ。それによっては、別にお前には何もしない」
「ひ、ひぃ……かか、金、金だな? いくら欲しいんだ? お、俺はウーベルト家の当主様だから、金ならいくらでも出すぞ! いくらでも! 馬鹿な平民共が、1000年労働したって手に入らないような大金だって今すぐにだって用意できるぞ!」
「俺が聞きたいのは……」
「だ、誰に雇われたんだ? いくらで雇われたんだ? 俺はその10倍、いや100倍は出す! だから、俺を見逃してそいつを殺してくれぇ!」
駄目だ。
錯乱しているのか、まったく話が通じない。
目前で派手に殺せば大人しく話を聞いてくれるかと思ったが、逆効果だった。
「なんだ? 違うのか? それともなんだ、俺に恨みでもあるというのか? わかった! 貴様の恨み、俺が全部買ってやろう! 恋人か? 友人か? 家族か? そんなもの、小さいと思わないか! そんなものは、金があったらいくらでも手に入るぞ! 金がないからそんな些事に奢る、固執する! 金を持って俺のような余裕が生まれれば、そんなくだらん感情に左右されることなどなくなる! そうに決まっている! だから……」
咄嗟に、膝で思いっきり顔面を蹴ってしまった。
分厚い脂肪は、嫌な感触がした。ゴルベドの前歯が砕け、その涎が俺の脚に掛かる。
「あび、あびぃ! ごろざないで、ごろざないでぐれぇ! やめで、やめでぐれぇっ! 金さえ持ったら、金さえあったら変わる! だから考え直せ! 金ならいくらでもくれてやる! 金ならある! いくらでもぉっ!」
俺は再び、ゴルベドの胸元を掴んで持ち上げる。
「ク、クロムゥッ! クロム! 殺せぇっ! コイツを殺せぇ! バラバラのグチャグチャにして、肥溜に捨ててやれぇ、うひ、うひひひ……」
「……あの台の上で拘束されている女、どこで捕まえてきた?」
紅上院と一緒に優はいたはずだ。
「し、知らない……知らない……。た、ただ……俺の部下が連れてきただけだぁ! だから俺は知らない! そ、そうだ! だから、俺は悪くないぞぉ!」
「あの女と一緒に運んできた女は他にいなかったか?」
「知らない! 知らないィッ!」
……優は、ゴルベドに捕まったわけではなかったのか?
その点に関しては、紅上院に聞いた方が早いか。




