貴族として生きるということ
食堂を出てキャンパス内を歩いていると、後ろからぱたぱたと走ってくる音が聞こえた。
「あ、あのっ。公子さまっ」
呼び止められて振り返ると、そこには膝に手をついて息をあげる少女の姿があった。
長い黒髪をおさげに結い、レンズの大きな眼鏡をかけている。かっちりした制服姿とも相俟って、よく言えば真面目で清楚、悪く言えば地味で野暮ったい印象を受ける子だった。
「君はたしか、エマだったか。テオドア子爵家の」
「は、はい。憶えてくださり光栄です」
入学式の前、ヒーモと一緒にいた新入生の一人だ。彼らのうちのほとんどは憶えていないが、このエマという娘だけはなぜか記憶に残っていた。
「公子さまは、もうお帰りなのですか?」
「ああ。そのつもりだ」
「そうなのですね」
息を整えたエマは、見るからにもじもじしながら、上目遣いで俺を窺っている。
「あのっ。もしよろしければ、こ、公子さまと、ご一緒したりとか……しても」
俺がじぃーっとエマを見つめていると、彼女は焦ったように目を逸らす。
「だ、ダメですよねあたしなんかじゃ……」
「レディの誘いを断るほど、甲斐性なしじゃない」
「え?」
「行こうか」
俺はエマのほっそりとした腰に手を添えると、こちらに引き寄せて歩き出す。
「え、あのっ」
「エスコートくらいする」
また陽の高いキャンパスを、身を寄せて歩く俺とエマ。
男女二人が仲睦まじく歩いていると当然ながら注目を浴びる。貞操観念の強いデメテル貴族ゆえ、俺達は婚約者だと思われていることだろう。
「何も話さないのか?」
体を固くしたまま足を動かすだけのエマに、俺はぶっきらぼうに尋ねる。
「も、申し訳ありません。公子さま」
「何か用があって俺を誘ったと思ったけど、違ったか?」
「あ、いえ。その……実は公子さまにお願いがあって参りました」
「聞こう」
「あたし、人付き合いが苦手で、あんまり友達がいないんです。ですから、これから仲良くして頂けたらなぁと、思いまして」
指先を弄りながら、か細くも意志のある声を漏らすエマ。
「なぜだ」
「え?」
「なぜ俺なんだ? 友達がほしいなら、家格の合うどこぞの令嬢に声をかければいい」
「それは……」
答えられまい。
そもそも友達が欲しいわけじゃないのだから。
俺はエマをエスコートしつつ、キャンパス内の庭園に足を運んだ。
背の高い生垣と、色とりどりの花が咲く様は、清々しい気分にさせてくれる。
「わぁ。素敵なお庭ですね」
「ああ。うちの庭園の方がすごいけどな」
「そうなんですか? 魔法学園も、公爵家には及ばないんですね」
エマの緊張も大方ほぐれてきているようだった。まだ少し、腰に回された俺の手を気にしているようだったが。
「さっきの質問ですけれど」
「うん」
「公子さまをお慕いしているから、という理由ではだめでしょうか?」
「だめだ」
「え? あっ――」
俺はエマの腰を振り、生垣に追いやる。いわゆる壁ドン的なやつだ。
周りに人気はない。俺はエマの細い顎をくいっと持ち上げ、息が触れるほどの距離で目を合わせた。
「君が今どんな感情を抱いているか、俺には手に取るようにわかる」
「う……」
「嫌悪だ。違うか?」
答えはない。沈黙は肯定、とはよく言ったものだ。
エマはどこか怯えているようにも見える。
黒い瞳の揺らぎは、そのまま彼女の動揺を表しているようだった。
「なにが目的で近づいてきたかは知らないが、その程度の腹芸で乗り切れると思ったら大間違いだ」
「こ、公子さま」
「俺は欺かれるのが嫌いなんだ。特に、色恋事に関してはな」
珍しく苛立っている。
それが声にも出ているのだろう。エマは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
俺はエマから体を離す。
「わかったらもう近づくな。お互いのためにもな」
こんなことで時間を使うのはこれっきりにしたいな。
公爵家に生まれた者として、しがらみと無縁の生活は無理だとわかってはいるが、やはり面倒くさいのだ。
「ま、待って! 待ってください!」
庭園を去ろうとした俺を、エマが呼び止める。
だが俺は止まらない。
「お願い! 公子さまっ! 待ってください! あっ――」
必死に追いかけてくるエマだが、自分の足に躓いて転んでしまう。
それでも俺は振り返らない。
「なんでもします……なんでもしますから……!」
その申し出にはすこし魅かれるが、立ち止まるほどでもない。
「公子さまに気に入られなかったら、あたし……!」
「他を当たってくれ。君は器量よしだから、引く手数多さ」
ひらひらと手を振って、俺は庭園を後にした。
昔の俺なら、何も考えずにエマを助けていたかもしれない。
だが、今はそんな気にはなれない。
すべてを失い、新しい世界に放り込まれた俺には、何も考えずに目の前の人を助けるなんて高尚な思いなどないんだ。
変わっちまったのかもしれないな。俺も。
こんな時にも、俺の地獄耳はよく機能している。
庭園の奥から、エマの嗚咽がいつまでも聞こえていた。




