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手首がやわらかい

 エレノアと目が合う。その表情はやはり無機質だ。こんな無愛想で聖女を名乗っていいのかな。

 二年前にあった、未熟さの残る少女然とした面影はない。


「隠れていたのね」


 俺の姿を見るや否や、エレノアが右手を持ち上げる。周囲に浮かぶ光の剣が、一斉にこちらに切っ先を向けた。

 問答無用ってわけかよ。


「聖女様、お待ちください」


 その時、平伏していた老人が声をあげた。


「なんでしょう?」


「あのお方は、ブラッキーに襲われた我々を守るために戦ってくださいました。わたくしめも、あのお方に救われたのです」


「彼は敵ではないと?」


「恐れながら、わたくしめはそう思っております」


 エレノアは俺をじっと見つめる。

 その瞳に揺らぎはない。


「皆さん、彼の姿をご覧なさい」


 平伏していた市民達が顔を上げ、俺に振り返った。


「すでに瘴気に寄生され、その侵食は半身に及んでいます。自我を失った化け物になるまで、そう時間はかからないでしょう。瘴気とはそういうものなのです」


 市民達がざわつきはじめる。

 彼らは瘴気というものがなんなのか、よく知らなかったのかもしれない。


「つまり……あのお方は、まもなくブラッキーになってしまうのでございますか?」


 老人は震える声で言う。

 エレノアは無慈悲にも頷いた。


「ですから、彼がまだ人であるうちに……英雄であるうちに女神の許へ送って差し上げるのが、無上の慈悲であると思いませんか?」


 老人は放心しているようだった。それは他の市民も同じだ。

 自分を助けた者が、ブラッキーと同じ存在だと知り、得も言われぬ感情を抱いているのだろう。


「聖女様の仰る通りだ!」


 誰かが叫んだ。


「これ以上被害を増やす前に、あの男をなんとかするべきじゃないか!」


「そうだそうだ! ブラッキーなら殺すべきだ!」


「ブラッキーを殺さずにいては、あたし達が死んじゃうわ! はやく殺しましょう!」


 その意思は急速に伝播していく。

 集団心理っていうのは怖いもんだ。聖女という後ろ盾を得ているから尚更だろう。

 すでに俺は、人とも思われていないらしい。


「だから言ったのにさ」


 ヒューズも緊張感のある声色になっていた。


「どうするロートス」


「どうもしねぇ。あいつの目を覚まさせるだけだ」


「まったく。無茶を言う」


 正直なところ、まともに体が動かない状態で戦うなんて無理だ。

 でも、ここで退いたらいけない気がする。俺の直感がそう告げている。大体の難局を直感で乗り切ってきた経験がある以上、それに従うのは悪くない選択だろう。


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 崩壊した街にシュプレヒコールが反響している。

 さっきまで命をかけて守っていた市民達に、死ねと言われることは、流石に精神的ダメージが大きい。

 けどそれはいいさ。褒められたくて助けたわけじゃない。


 そんなことより、エレノアの方が重要だ。

 聖女として崇められているなんて、あいつらしくないので。


「なぁヒューズ」


「なんだい?」


「もういい。ちょっと離れてろ」


「え?」


 深呼吸し、ヒューズの支えを外す。

 そして、脚を引き摺りながらゆっくりとエレノアの所へと歩く。


「き、きた!」


「はやく逃げるんだ! 殺されるぞ!」


「聖女様……どうか我らをお救い下さい……!」


 場は再び戦慄が支配した。

 人々は我先にと逃げ出し、散り散りに走り去っていく。

 宙に浮かぶエレノアの前に辿り着いた時には、すでに市民の姿は見えなくなっていた。


「エレノア……!」


「久しぶりね、ロートス」


「なに……?」


 こいつ、俺のことを憶えているのか。

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